第三十四話 葵の上

歌のおかげか、私が嘗て無いくらい冷淡な目をしたからか知らないけど、頭中将はヘナヘナとその場に座り込んでしまう。

私は失礼しましたと言って部屋を後にする。永久が仕事が終わるまでどこにいようか。流石に頭中将をあんなふうに突き放したことが知られたら怒られるかなぁ…。

殺してはないから、半殺し鳥さんコースは無いんだろうけど…。


「…そちらにいらっしゃるのはどなたですか?」


私がせっかくだからと左大臣家を散策していると御簾越しに声が聞こえる。左大臣家の人なら私が素通りすることは許されないだろう。

私はその場に座ると挨拶をする。


「頭中将様の乳兄弟、永久様の妻、夕顔にございます。」


「夕顔…聞いたことのない名前ですね。」


「人は皆私を毒の君と呼びます。」


「!、あの毒の君ですか!」


声の主は御簾を少し開いて手招きをしてくる。敵意はなさそうだし、従順に御簾内に上がるとそこには可愛らしい顔立ちだけど、精一杯綺麗系メイクをしている女の子がいた。

多分年齢は私と一緒くらいだろう。

自分がまだ名乗っていなかったのに気付いたのか、途端に頬を赤くして下を向くのがまた可愛らしい。


「…私は葵と申します。皆、私のことは葵の上と呼びますが、まぁ好きに呼んでください。」


そっか、この子が葵の上なのか。もうちょっと気位の高い女性なのかと思っていたけど、意外と気が弱そうだし、どこかオドオドした感じがある。


「それで!毒の君といえば御息所様のところでとんでもない歌をお書きになっている

と噂されてますが、それは真なのでしょうか?」


とんでもない歌かどうかは置いといて、実際に歌は書いているからまぁと頷く。すると葵の上は目をキラキラさせてぐいっと近づいてくる。


「今一つだけ聞かせてもらえませんか?殿方たちに送っているという地獄の歌を。」


何だかどんどんひどい言われようになっている気がするんだけどこういうのって誰が噂してるんだろう…。

だけど葵の上のお願いを断ることなんて出来ないから私はデビュー作を聞かせてあげる。


面倒くさ 面倒くさったら 面倒くさ いらない返歌の 写し作業


葵の上はぽかんと口を開けたまま動かなくなる。とうとうこの素晴らしさに声も出ない人が出てしまったのかと、自分に皮肉ると葵の上は私の手を掴んで更にキラキラした目を向けてくる。


「素晴らしいっ、素晴らしいわ!」


いや、そんなに素晴らしくもないんだけどなぁ…この歌。

だけど葵の上は興奮気味で顔を近づけてくる。そして、少し真剣な顔で小さな声で言う。


「…もし、光る君からの手紙が来たら、あなたが返歌を書いてください。」


その声には、警告とか、打算とかのない、純粋な女の子としての温かみがある。きっと、この人は光る君を本気で愛していたんだろう。だけど、光源氏は若紫や他の女にうつつを抜かしていたせいで葵の上は悲しい思いをしていたはずだ。

私は必ずと言って手を握り返す。

だけど…一つだけ聞きたいことがある。


「葵の上様はどうして光る君を愛したんですか?」


作中で葵の上を光源氏が大切にするシーンは多くなかったはずだ。それなのに、この子が好きになる理由がわからない。すると葵の上はきょとんとしながら首を傾げる。


「誰があんなの好きって言いましたか?私はあいつが少しでも幸せになる機会を潰しておきたいんです。」


前言撤回。純粋な女の子としての温かみのある声ではなく、純粋な女としてのあの女好きへの憤怒のある声でした。


「それに…私はお兄ちゃんの方がかっこいいと思っていますし…。」


「お兄ちゃん?」


頭中将のことだろうか。なら悪いことをしたなぁ…。でも葵の上はしまったとばかりに顔を赤くして、私を恨めしい目で見てくる。


「多分、毒の君が思う兄とは違います。私の兄として接してくれたのは…。」


「葵の上様、明けましておめでとうございます。」


葵の上が何かを言おうとすると御簾越しから優しい声がする。


「本日はお正月ということで、椿餅を盛ってきましたよ。…お兄様方には秘密でお願いしますね。」


永久はそう言って葵の上に椿餅を渡す。

葵の上は頬をピンク色に染めながら椿餅を受け取る。

私は何となく、葵の上が言うお兄ちゃんが誰なのか察した。


「ありがとう…永久お兄ちゃん。」


どうやら、葵の上は私の夫、永久のことが好きみたいです。



「…永久、あんた意外と罪な男よね。」


「はぁ?」


出会い頭にそんな事言われたら確かにそういう反応になってしまうのかもしれない。だけど私は葵の上と話してつくづく思った。

葵の上は、実の兄にはあまりかまってもらえず、兄の乳兄弟である永久によく甘えに行っていたらしい。そして、そのたびに永久が兄として優しく接してくれたのが嬉しくて今につながるらしい。ただ、幸いなのが恋心ではないということ。


「別に夕顔さんのようにお兄ちゃんの夫になりたいわけではないんです。ただ、お兄ちゃんと一分一秒を一緒にいられるのが羨ましい。」


そう、葵の上は永久に対して推しという感情を抱いているんだ。

それはそうと、この誰にでも何の打算もなく優しく出来る天性の才能がこんなふうに女の子に作用するなんて…。

世が世なら光源氏や頭中将がモテるのは中学高校まで。永久ががモテ始めるのが大学からと言ったところだろう。


「…なぁ、夕顔。」


「ん?何?」


永久は心配そうに私を見つめている。その目で見つめられるのは恥ずかしいんだけど…。


「頭中将様から、何もされていないか?」


この人はやっぱり優しすぎる…。

私は牛車に乗り込みながら笑顔になるのをこらえてため息を付く。


「何もなかったよ。いや、でもちょっとだけ抱きしめられかけたかな…?」


「何!?」


アレは一瞬の出来事として処理していたけど、思い出すと段々とまた嫌悪感が湧いてくる。なら…今日はちょっとくらい、甘えてもいいよね?

私は永久に抱きつく。だけど、そんなの初めてだからキュッと、永久の胸にもたれかかる感じで。

永久の着物から甘い香りがする。

そういえば、清光が死んだあの日も、私は永久に抱きしめられていたっけ。

永久は少し驚いていたけど、すぐに優しく抱きしめてくれる。


「大丈夫だよ。怖かったな。」


きっとこの人はわかっていない。何で私が永久に抱きついているか。

別に頭中将に襲われかけたのが怖かったからじゃない。ただ、永久を少しでも近くに感じていたいだけなんだ。

私は少しずつ眠くなってきた。何だかんだ言って今日はつかれたんだろう。そのまま永久に抱きしめられたまま眠りに落ちる。


「…俺だって本当は理性保つの…結構大変なんだぞ。」


そんなことを言ってるなんて、全く知らずに。


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