〈9章〉流す者と流される物
リリさんがトイレから戻るまでの間、僕と彼女は特に話すことも無く珈琲を飲みクッキーを食べた。片翼のペンギンはリリさんが出ていった扉に張り付き小さくなっていた。年期の入ったログハウスに一斉掃射を行っていた雨は勢いを弱め、クッキーを砕く音が室内に響く。
リリさんが戻ると片翼のペンギンは再び膝の上に乗り小さな体の毛繕いを始めた。
「この子は、片翼を失った時に空や海に対する憧れの感情を捨てたと思うかい?」
リリさんは2杯目のコーヒーを注ぎながら僕にそう聞いた。今度は最初から角砂糖を3個入れた。
リリさんの膝で毛繕いに勤しむペンギンの損傷部分を見る。他の体毛と少し色は違うけれど、翼が生えていたであろう箇所からは既に年期の入った羽毛が生えていて、その小さな体は片翼であることに慣れているようだった。
ペンギンは僕たちに多少怖がっているけど、何かに絶望している様子はない。むしろリリさんとのここでの暮らしに安堵しているように見える。それが憧れの感情を捨てたからなのか、僕には判断できない。
「身体的に飛ぶことも泳ぐことも出来ないなら、感情なんて捨てなくても状況を受け入れられるんじゃないでしょうか、諦めというか」
「諦めることが出来ないけど、それがどうしても無理だと言う現実も知ってしまっているから、感情を流すということもある。そして結果的に諦めることができる。君の言っている事とは、諦めるという結末に至るまでに通っているプロセスが少し違う」
リリさんはさっきより甘くなった珈琲を飲みながら重たげな瞼を閉じる
「それにさっきも言ったけど、現実的に不可能になったから諦める程度の気持ちなら重大な分岐点ではないんだから、感情を流すことはない。流れるのはもっと深い思い。どうしても自分で見切りをつけられない感情だ。君にそういうものはある?」
そう言われて僕は考える。僕が人生の分岐点として何らかの感情を流すとすれば、間違いなくピアノに関してだろう。それが僕の全てで、それ以外に大きな影響を与えるものなど何も持ち合わせてはいなかった。
「特にないですね。僕は比較的身軽に生きてるので」
僕はそう端的に答えた。
嘘ではない。僕がピアノを捨てることはまず有り得ないから。それ以外に何も無いなら、僕が裏の世界に流すものなんて何も無いと言い切れる。
でも何故だか、その言葉があまりしっくり来なかった。きっと今この空間では発言自体が一種の夢のように感じられるからだろう。
よく考えると今僕はある種夢の世界に生きているように思えた。つい最近知り合った不思議な女の子と山を登り、その途中で魔女の家にお邪魔して片翼のペンギンを見ながら雨宿りをしている。
とても現実的ではなかった。でも珈琲の苦さとクッキーの甘さが、ここが現実なのだと伝えていた。
「流す感情がないというのは良い事だよ。もちろんそういった感情を持つことが悪いことでも無いけどね。それほどの熱意があるということだから」
リリさんは優しい目で僕を見ながらそう言った。
それから僕たち3人と1匹は雨が上がるまで軽い世間話をして過ごした。3時間ほど経ち、雨の勢いは弱まりつつあるものの止む兆しがないため、夜になる前に山を下ることになった。
「すまないね、傘がひとつしかなくて」
リリさんは僕らに薄汚れたビニール傘を私ながらそう言った。
「気にしないでください。とても助かります」
「また何か話したいことがあったり、助けが欲しい時はここに来ると良い。できる限りの事はしよう」
「ありがとうございます」
お礼を言って玄関の扉を閉める直前にリリさんが彼女の名前を呼んだ。
「あなたのしていることが正しいのか正しくないのか私には分からないけど、やり方は間違っていないと思うよ。でも忘れないで、感情の取捨選択ができるのは表の人間だということを」
「ご忠告ありがとうございます。でも、きっと何とかできるはずです」
そう答える彼女の横顔は少し強ばってるように見えた。こんな顔を見るのは初めてだったから、2人の間にある話の意味合いは分からないけど、きっと茨城の道を歩んでいるのだろうと推測できた。
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帰りの山道は雨で土がぬかるんで僕たちの歩みを遅くらせていた。歩みが遅いのは雨のせいだけではないけれど、今でも空からは細く小さい雫がしとしとと辺りを濡らしている。
僕たちはひとつの傘の下でその身を縮こませながら歩いた。彼女の肩が少し濡れていることに気づき持っている傘を彼女の方に傾ける。彼女は地面を睨みつけ険しい表情を続けている。
「今回は結構多くの情報を得られたね。『世界の果て』にたどり着くのも意外とそろそろかもしれない」
僕がそう言うと彼女はただ一言そうだねと返したきり沈黙が再び2人を覆った。
「確かにリリさんは簡単じゃないって言ってたけど、不可能じゃないとも言ってた。今はそれで充分だと思うし、そんなに落ち込むことないよ」
「ありがとう。でも違うの、上手く言えないんだけど。うん、ごめん、今はまだなんて言っていいのか分からないの」
こんなにもどぎまぎしている彼女を見るのは初めてだった。今日の彼女は実に色々な表情を出している。
「君でもそんな表情になる時があるんだね。いつも明るい表情と雰囲気だったから少し意外で面白い」
「ちょっと、面白いって何?私だって真剣に考える時ぐらい」
そう抗議する彼女に傘を無理やり渡すと、僕は雨の中に駆け出した。
「急に何してるの?」
彼女とリリさんが僕に何かを隠していることは分かっていた。会話の端々に感じ取れたのだ。そして彼女がこんなにも浮かない表情をしている理由もそれに起因するものなのだろう。
とすれば僕に何か手伝えることは何も無い。だからせめて、彼女には笑っていて欲しいと思った。
「雨に自分から当たりに行くのなんて何年ぶりか分からないけど結構良いね。君もやってみたらたら?頭の中スッキリするよ」
「何それ、ふふ」
彼女が僕を見て笑ってくれたことに少し安堵する。しかし少しやりすぎた。彼女は徐々に表情筋が緩みお腹を抱えて笑い始めた。
「面白かったなら良かった」
傘の中に戻りそう言うと、彼女は肩を上下させ呼吸を整えながら目元の涙を拭いた。
「行動自体は怖かったよ、頭でもおかしくなったのかと思った。何より君のキャラじゃないし」
「酷いな、せっかく励まそうとしたのに」
「それ」
「どれ?」
「励ます手段として雨の中に駆け出したことが面白かったの。あんな風に励まされたのは初めてだったから」
彼女は僕の奇行を思い出して再び笑っていた。
「最近人を笑わせることなんてしてなかったから、さっきのは今できる僕の精一杯だよ」
傘を受け取って持ち直しながら僕は自分の奇行を少しでも正当化させるよう努めた。
「ふふ、行動は別にどこも面白くないよ」
過程はどうであれ結果的に彼女を笑わせることには成功した。今はそれで良かった。
「ありがとね、気を回してくれて。確かに私、リリさんと話をしてから弱気になってた」
「君のポジティブ精神ならきっと何とかなるよ」
「そうだね、頑張る」
彼女はもう下を向いてはいなかった。
「肩濡れてるよ?」
「いいんだ。既にずぶ濡れだし。それに君が濡れちゃうから」
「じゃあもっとくっつけば良いじゃん」
そう言うと彼女は僕との距離を半歩詰めた。彼女と僕の肩が触れ合うのを感じ、雨で冷めた体温が上昇するのが分かった。こんなに他人と近づいたのは久しぶりでどことなく落ち着かない。
「ねえ、今日の夜は何か予定ある?」
「特にないよ。帰りを心配する家族もいないし」
「じゃあさ、このまま廃校舎に行こうよ」
「急になんで?それに今から向かうと帰りがだいぶ遅くなるし、君の方は大丈夫なの?」
「私の親は放任主義だから大丈夫。君の演奏が聞きたくなったの」
そう彼女は微笑みながら言った。僕の演奏、父の曲を聞きたいと言ってくれる人の頼みを断ることなんて出来るはずがない。
「良いよ。夜に合う曲を披露しよう」
「あ、でも全身ずぶ濡れだと風邪ひいちゃうから無理しなくて良いよ?」
「日暮れとはいえ夏なんだからすぐ乾くよ」
そうして僕たちは日の暮れかけた山を2人で下った。廃校社に着いたのは夜の8時で、既に雨は止んでいた。
雨を呑む 雪 @yuki_librar
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