〈8章〉裏と表



「---私は本物の魔女だよ、『世界の果て』を記録する仕事をしてる---」



僕の耳への意識回路は正常に機能している。外で強く降る雨の音と、部屋の隅でごそごそと動く片翼のペンギンの音を認識できているからそれは間違いない。まさかこんなところで、今までなんの進展もなかった『世界の果て』についての話が出てくるなんて。


「君たちの思い浮かべるような魔法を使うタイプでは無いけどね。昔だって魔女は1種類じゃなかった。今は数こそ減ったけど、種類は増えてる」


「多様性の時代」


「そうそれだ。多様性。私はその1つで、君たちが『世界の果て』と呼んでることを記録してる魔女のお姉さんだ」


「『世界の果て』のことは彼女から聞いたんですか?」


「聞いてはいないよ、分かるんだ。理由は」


「魔女だから」


彼女はリリさんの言葉を遮って淡々とそう言った。リリさんは少し困った表情を滲ませた。


「さっき君が居ない間にそのことについてお嬢ちゃんに少しだけ助言をあげた。そのせいで嫌われちゃったみたいだけどね」


リリさんはあまり気にしていないという様子でクッキーを齧りながらそう言った。


「『世界の果て』というのは、実際何を指すんですか?」


「裏と表を繋ぐ場所。それは座標で決まっている様なものじゃない。このログハウスみたいに古びた玄関がある訳でもないし、立派な城門でもない」


座標で定められていない場所。


「じゃあ一体どうやってそれを見つければ良いんでしょう?」


「見つけるのは難しくないよ、でも簡単じゃない。そしてそれを君に教えることは出来ない」


僕には教えることができない。何故だろう、彼女には教えたのだろうか。その場所に関わりを持たない一般人の僕は知る権利がないのかもしれない。


「記録が必要ということは、これまでも彼女のように裏側の世界からこちらの表の世界に流れてきた人とか、その逆の人とかもいるってことですか?」


「半分正解」


リリさんは半分飲んだ珈琲に角砂糖を2つ落として混ぜながら答えた。角砂糖は黒茶けた液体の中で溶解しその姿を消す。


「決して多いわけじゃないけどね、表から裏に流れてくる人は毎年結構いたりする。でも、裏から表に流れてくる人は滅多にいない。表裏は一体でも、イコールでは無いんだよ。水のようなもので、1度流れれば逆流するのは難しい。彼女はいわばイレギュラーだ」


「裏の世界と表の世界では何が違っているんでしょう?」


「ほとんど変わりはないよ。ただ、世界の在り方の本質が異なる」


「世界の在り方の本質」


「分かるかい?」


「よく分かりません」


「そうだなあ」


リリさんは僕の隣で珈琲の底を睨みつけている彼女の様子を伺う。


「いいだろう、それくらいなら教えてあげられる」


彼女の様子から何を得たのかは分からなかったけど、リリさんは僕に何かを教える決心をしたようだった。僕もリリさんの言うことを一語一句聞き取りまいと足の小指とかの不要な意識回路は全て耳に集約させる。


「裏の世界はね、表の世界の感情のゴミ捨て場なんだよ」


「感情のゴミ捨て場」


「そう。表の世界で、その人物がもう必要無いと判断して投げ捨てた感情が裏の世界に流されるんだ。裏と表は同じ世界に見えるし、実際ほとんど変わりが無い。でも人にはある程度の変化が起きる。ある感情を手放した人間は、裏の世界では今まで通りの性格や人格だけど、表の世界では違う性格や人格になって生活してるんだ」


感情のゴミ捨て場。それはまた突拍子もない話だ。


「じゃあ感情を捨てていない人間はそこに居ないのかと言われればそれは違う。裏の世界は、基本的に表の写し鏡のようになっていて、全ての生命体が表と裏で存在している。ただ、心が違うんだ。外側はあるけど中身が違う。言い方は悪いけど、裏で暮らす生命の大半が、表の生命の模造品って感じだ。タバコの灰皿みたいに、表の人間が自分の感情の1部を捨てた時の受け皿として存在してる」



「普通、感情を捨てた本人も、捨てられた本人も分離したことには気づかない。例えば、普段は陽気な性格の人間が急に物静かになったり、野球に熱心に取り組んでいた人間が急に野球を辞めたり、それぞれに何か分岐点のような出来事があるんだろうけど、結果的に陽気だった性格や野球が大好きな人格は裏の世界に流されたことになる。あとは裏と表で互いに干渉することなく死ぬまで生き続ける」


「でもそれだと、少しづつでも世界や記憶は変わってしまうんじゃないですか?」


「その通りだ、でもね」


「さっきも言ったけど、表も裏も、自分が分断されたことには気づかないから関係ないんだよ。互いに自分の世界しか無いと思っているから、その世界で起こる事象が全てだと認識する。仮に有名なアナウンサーが表と裏で別の野球選手と結婚しても、逆が分からないんだから疑問にも思わない。それにね、記憶が表と裏を行き来する時に、記憶はそれぞれの世界に沿うように修正されるんだよ。理由も仕掛けも特にない。裏と表でそれぞれ行きやすいように、邪魔な記憶は書き換えられる」


記憶の修正。確かにそれなら逆の世界に行っても混乱せず気づかず生きていける。


「でも彼女は自分が裏と表を行き来したことを知っている」


僕は彼女のイレギュラーな点について質問した。彼女の異質な点は裏から表に来たことだけでなく、その一連の記憶を保持していることにある。


「彼女は表から裏に落ち、再び表に流されてきた。正確には表の自分に引っ張りあげられてきた。理由は分からないけど、その過程のどこかで世界の仕組みを知ったのだろう。しかしまた裏の世界に流されたがっている。その理由は何だろう?」


リリさんはその眠そうな目を細めて彼女見ながらそう言った。豹が獲物を捕獲する時の静かで鋭い目つきだった。


「答える必要はありません」


彼女は一言そう言った。リリさんが今、意地の悪い質問をしていることが2人より状況を理解出来ていない僕にでも分かった。1度捨てた感情をもう一度取り戻して、また捨てたいと願うことの意味が、リリさんに分からないはずがないのだ。きっと僕が居ない間にも同じような質問をしたのだろう。


「まあ、理由は特に問題じゃないから話す必要はない。注目するべきは彼女が裏と表の記憶を保持しているということだ。裏の自分が表に戻る時は、表の自分がその感情を再び欲した時ということになる。裏からのアプローチは基本できない」


リリさんは家の隅でこちらを見ている片翼のペンギンに視線を向けながら僕たちに世界の仕組みを話す。


「裏に流されてくる感情というのは、決まってその人にとって大きな分岐点となるものだ。だから表にいる捨てた方の自分もそう易々とその感情を取り戻したいとは思わない。でも、1度やめた野球を、もう一度大きな分岐点で取り戻したいと願い、裏から表に引っ張りあげて野球を再開する人間も非常に稀だが存在する」


片翼のペンギンが部屋の隅を離れ、話をするりりさんの膝の上にもぞもぞと乗る。


「その時、裏の自分の記憶はほぼ消えるんだよ。少しでも世界が違ったり、表裏で別の人生を送っていた分、性格もまた少し違っている。だから調整しなくちゃいけない。完全に消える訳では無いけれど、表の自分の記憶が優先されるんだ」


リリさんは自分の珈琲を指さす。


「この珈琲と同じだよ。珈琲が表で、角砂糖が裏。表の自分に裏の自分が溶け込むイメージだ」


「表裏はイコールじゃない」


「その通り」


「でも彼女は裏の記憶の大部分を保持したまま表に戻ってきてしまった」


「そう。普通はありえない事だ。私が記録してきた中でも類を見ない。でも彼女がここに存在しているのだから認めなければならない」


「裏の世界を認識出来ている彼女であれば、もう一度自分を裏へ流すこと自体は簡単なんじゃないですか?」


「そうもいかない、と思う。私も前例がないから断定はできないんだ。感情を流すというのは、意識下で行われるものじゃない。だから、力めば流れていくものでもないし、強く願えば流れたりもしない。それに、もしもう一度裏にいらない感情を持つ自分を流したとしよう。その時、表の人格の記憶がどうなるのかが分からない。世界の仕組みについて全て忘れることが出来れば良いけど、流したことを自覚している状態では、表の人格自体に大きな変化は訪れないんじゃないかな?」


リリさんの言わんとしていることは何となく理解出来た。例えば何か自分にとって不必要な感情を流す時、それは無意識に流れなくてはならない。自分で捨てたという実感が残ってしまえば、結局のところ、その感情を忘れることはできず、くずかごに入ったその不必要なゴミとにらめっこする羽目になる。そんな状態では人格を変えることなど出来はしない。


「手詰まりのような感じがしますね」


「いや、情報不足だ。彼女が何を流したいのかは分からないけど、何としても裏にその感情を流したいと思い、表と裏を繋げる『世界の果て』を探し続けるのであれば、必ず糸口はあるよ」


リリさんは本当に応援してくれているようだった。


話はそこで一旦休憩となった。リリさんがトイレに行っている間に僕はさっきから黙り込んでいる彼女に声をかける。


「大丈夫?何か気に触るような会話があったなら謝るよ」


「君もリリさんも、別に悪いことは言ってないよ。私がもっと上手くやる必要があるだけ」


悲しそうに、それでいて悔しそうに言う彼女の『上手くやる』という言葉の意味が僕には分からなかった。




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雨を呑む @yuki_librar

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