〈7章〉魔女と片翼のペンギン


魔女。15世紀末に興った魔女裁判でその多くが命を落としたとされている魔法使い。なぜその生き残りが日本のこんな小さな山の奥地にいるのだろう。真偽や理由は何であるにせよ、この家とはあまり関わらない方が良いと思った。


「引き返そう、山頂まではもう少しだし、雨が降りそうだから早く登らないと」


そう言って振り返る僕の腕を彼女は強く掴み、ログハウスの玄関に突き進んだ。そうだ、彼女はそういう女の子だ。僕は抵抗をやめて従う。


「魔女ってさ、どんな人なんだろう」


彼女は僕のほうを見ずにそう言った。


「それは今から分かるよ」


「一緒に来てくれるって信じてた」


彼女は僕の方を見て微笑みながらそう言った。


「君が無理やり連行してるんだよ」


僕の口だけの抗議に彼女は特に反応せず玄関に向かった。


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彼女が玄関の扉をノックする仕草に戸惑いはなかった。まるで友達の家に遊びに来た時のように、兄弟の部屋に入る時のようにノックを2回軽快に鳴らす。静まり返った森の中に彼女のノック音だけが響く。しばらくの沈黙の後、ログハウスの中から微かに音音が聞こえ、扉が微かに開き1人の女の人が姿を現した。


「こんにちは」


魔女が言う。


「こんにちは」


彼女が言う。


こんにちは、という言葉がこれほどに馴染んでいない状況は初めてだった。


「よくここが分かったね、随分と珍しいお客さんだ」


「はじめまして、貴方は魔女なんですか?」


彼女は躊躇いなく聞いた。初対面の人にいきなりする質問ではなかったけど、それが彼女なのだ。


「魔女?ああ、看板を見たのね。まあ立ち話もなんだし中に入りなよ」


魔女は笑顔でそう答えた。魔女的な微笑み、と言った方が正しい。彼女の笑みには何処か奥行きがあるように感じられた。


「散らかっててごめんね、人が尋ねてくるなんて滅多にないから片付けの習慣がないんだ」


ログハウスの中には多くの本が山積みになって置かれていた。大きさもジャンルもバラバラになって積まれた本の山で室内は圧迫され、古びた本屋の匂いが漂っている。キッチンには無秩序に食器がのさばり、年季の入った木製のテーブル周りだけが唯一綺麗に片付けられていた。


「座って待ってて、今から珈琲を淹れるところだったんだ、飲める?」


「ありがとうございます、いただきます」


僕たちは好意に甘え大人しく席につき、彼女が珈琲を慣れた手つきで淹れるのを眺めて待った。


「1人でこんな山奥に住んでいるんですか?」


珈琲豆がガリガリとすり潰され、熱いお湯をかけられて深い良い匂いが室内に充満してきた頃、彼女はキッチンにいる魔女にそう聞いた。


「私だけじゃない、もう1つ命がある。ほら、そこで小さいのが君たちを見てるだろ」


彼女は部屋の角の方に山積みになっている本のすぐ横を手に持ったポットで指した。その先には片翼を失った小さなペンギンがこちらを不安そうに覗いていた。


ペンギン?


なぜ日本のこんな山奥の魔女の家にペンギンがいるのだろう。あるいは魔女の家だからペンギンがいるのだろうか。


「なぜペンギンがいるのだろう、って思ってるだろ?」


魔女は聞かれることが分かっていたかのように平然とそう言った。


「こんな環境でも生きていけるんですか?」


ペンギンに興味を奪われている彼女に代わり僕が魔女に質問する。


「普通は無理かもしれない、でも生きてる。私は魔女だからね、ペンギン1匹生かすことぐらいはできる」


「魔女でも珈琲豆は手で挽くんですね」


「趣味だからね、時間をかけたいタイプなんだ」


魔女はそう言って目を閉じ、趣味の時間を堪能していた。しかし直ぐにふと何かを思い出したように目を開けて僕を見た。


「そうだ、クッキーがあるんだ、とても美味しいやつ、頬がいくらあっても足りないくらい美味しいやつだ。君ちょっと取ってきてくれないかな?」


「分かりました。何処ですか?」


「このログハウスのすぐ裏に小さな小屋がある、私の仕事場だ。鍵はかかってないからそのまま入れる。中に入るとすぐに小さな手洗い場があって、その横の棚に沢山入ってるから好きなだけ持ってきてくれ」


「わかりました」


僕は席を立ち再び外に出る。玄関の扉を閉じる時、魔女は彼女に向けて微笑みかけているように見えた。


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外に出ると霧のような雨が辺りを湿らせていた。本降りが近いと、僕は思った。


ログハウスのすぐ裏には母屋に負けないぐらい廃れた10畳程の小さい小屋が隠れていた。仕事場と言っていたから、大きな鍋と見たことも無い薬草とかがあるのかと思っていたけど、ログハウスの中とほとんど変わりはなかった。大量の本が魚の大群のように部屋を占拠していた。一つだけ設けられた窓の傍にワークデスクが置かれていて、ログハウス同様デスク周りだけは綺麗に整頓されていた。デスクの上に置かれたペンとインク、白紙の束から、彼女は何かを書き記しているのだろうと推測できる。内容は分からないが、魔女が書く書物には興味を惹かれた。魔女はこんな山奥で、片翼のペンギンと暮らしながら一体どんな文章を書くのだろう。やはり薬の調合書とかだろうか、もしくは魔女の伝記とか。案外普通に雑誌の1部を委託でライティングしているだけかもしれない。


僕は魔女の仕事について考えすぎて、クッキーのことを忘れていた。だいぶ考え込んでしまったから、きっともう珈琲はテーブルに並べられているだろう。僕は急いで洗い場の横の棚からクッキーを取り出す。急いでログハウスに戻ると、2度ほどノックして玄関の扉を開ける。彼女と魔女は既にテーブルに座り僕を待っていた。


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「おかえり、結構かかったようだけど、見つけずらかったかい?」


「いえ、少し考え事をしていました。すみません」


「なら良かった、さあ食べよう」


魔女はそう言うと僕から受け取ったクッキーを流れるようにお皿に移した。


「遅くなってごめん」


僕は彼女の隣、魔女対角線上の席に座って彼女に謝る。


「別に」


僕の謝罪に対して彼女は微かに怒りの様なものを含ませながら短く返した。理由は分からなかったけど、向かい側でニコニコしながら様子を伺っている魔女を見て、二人の間で何かあったのだろうと思う。


「改めまして、私は魔女のリリ。よろしくね」


魔女はは笑顔でそう挨拶した。


「本名ですか?」


僕は聞き慣れない名前に違和感を覚えてそう聞いた。


「まさか、今適当につけた。名前が必要だとは思わないけど、君たちが私を呼ぶ時に名前が無いと不便だろうから。ああ、君たちの名前はもう知ってるから自己紹介はしなくて良いよ、魔女はなんでも知ってるんだ」


「すごい」


「私がさっき教えたのよ、名前」


彼女はつまらなそうに珈琲を眺めながら僕に仕掛けを教えてくれた。


「参ったな、カッコつかないじゃないか」


彼女は細い眉毛を八の字に曲げながらそう言った。改めてリリさんをよく見ると、容姿はとても整っていて、長くて漆黒の髪とシミひとつない綺麗な肌からまだ相当若いことが分かった。長いまつ毛を携えた眠そうな目の下には夏の木陰のようなクマができていたけれど、それ以外は健康に見えた。


「でもね、君の考えていることなら分かるよ」


リリさんは手に持ったクッキーで僕を指してそう言った。


「はあ」


「魔女って本当なのか?どんな仕事をしてるんだろう?なぜペンギンには片翼しかないんだろう?なぜこんな美しい魔女が山奥で暮らしているんだろう?大方こんなところだ」


「すごい」


「ふふん、そうだろう」


自慢げに鼻を鳴らすリリさんにカッコイイという感情は湧かなかったけど、素直に感心した。もちろんこの空間で抱く疑問にそれほど数があるとは思えなかったから、予想できなくもないけど、彼女の自信に満ちた顔を見ていると本当に僕の考えていることが分かるのだろうを思った。


「ゆっくり順番に話そう。どうせしばらく外には出られない」


外では本格的に雨が降り始めていた。屋根に当たって弾ける雨粒の音が機関銃のように絶え間なく響いていた。


彼女はクッキーを咀嚼し、1つ目の頬を落としてから珈琲を一口飲んでゆっくりと呼吸した後で話を始めた。




「---私は本物の魔女だよ、『世界の果て』を記録する仕事をしてる---」



僕の耳の意識回路の接続不良を疑ったのは廃校舎で彼女と初めて話をした時以来だった。

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