〈6章〉山登りと無機物の妻

8月13日



「一緒に山に登ろう」


そう彼女が言ったのが2日前で、僕と彼女は近くの山の登山道を登っていた。大きい山ではなかったし、登山道と呼べる立派な道ではなかったけど、車が通れるぐらいの幅のでこぼこした道は確保されていた。


山の中には多くの水分を含んだ空気が充満し、深い深呼吸を繰り返しただけでお腹がいっぱいになる感じがした。彼女は僕の数歩前を軽快なステップを踏みながら進んでいる。


「風が気持ちいねえ」


彼女は両手を広げて全身に風を感じながらそう言った。


「そうだね、でも登山に制服っていうのは理解できない」


彼女は制服を着ていた。僕は彼女の制服姿以外を見たことが無い。


「なんで?可愛いのに」


「可愛さが理解できないわけじゃない。でも、登山には登山の可愛さが必要だと思うよ」


「分かってないなあ、君は何も分かってない」


彼女は肩を落とすことなく元気にそう言った。


「女子高生っていうのはね、女子高生っていう生き物なの。制服とローファーも私なの。猫が肉球とかパヤパヤの毛を着脱できる?」


「できない。でもその格好だと不便じゃない?」


「わかってない。利便性なんてものは女子高生には備わってないんだよ」


「分からない」


「君はもっと女の子と遊んだほうが良いと思うな。女の子の繊細で複雑で面倒くさい硝子の心を理解した方が良い。じゃないと将来苦労するよ?ピアノと結婚はできないんだから」


結婚なんて、今の僕には想像すらできなかった。でも確かに、ピアノとの結婚を考えてみるのも悪くない。ピアノは繊細で複雑だけど、面倒くさくはない。望んだ音に、正確な音で応えてくれる。日本では無理でも、外国のどこかにはピアノと結婚できる国があるかもしれない。多様性の時代なのだ。式には楽譜たちを招待しよう。そして妻と一緒にMISIAのアイノカタチを奏でよう。僕が弾き、妻が歌う。きっと素敵な結婚式になる。


「考えておくよ。ところで君のいた世界では無機物との結婚事例があったりするのかな?」


「ねえ、君ちょっとおかしいんじゃない?」


彼女は今度は肩を落として体をすくめて僕にそう言った。


「おかしくなんてないよ。多様性の時代だ」


彼女は僕の屁理屈を聞いて大きなため息を吐いた。周りの空気の二酸化炭素量がどっと増えたように感じられる程のため息だった。


「それに、前にも言ったけど、私のいた世界だってこの世界のほとんど変わりは無いの。野球選手とアナウンサーが結婚して2年で離婚して、芸能人が不倫して世間に干されて、幼なじみが負けてぽっと出のヒロインが主人公と結ばれる。ありきたりなラブストーリーとラブミュージックで溢れてる。誰も無機物と結婚なんてしない」


「素晴らしい。誰もがbacknumberのクリスマスソングを歌って、小さな恋のうたを演奏して、そして僕は式でアイノカタチを妻と奏でる」


「勝手に君を混ぜないでよ」


くだらないやり取りを意味もなく交わしあっているうちに、僕たちは森の中の少し開けた休憩スペースに到着した。


自然に生え、人工的に切り倒された木々の生きた証である切り株に僕たちは腰を下ろし、僕は水を、彼女はコーラを飲んだ。彼女がコーラを飲む姿はこの森に不自然に似合っていた。自然ではないけど調和がとれていた。非現実的な森の中で、制服姿の彼女と彼女の飲むコーラが現実とのバランスを取っているように感じられた。


「君はなんでこっちの世界に来たの?」


僕は唐突に彼女がこちら側に来た理由を知りたくなって聞いた。


「厳密には少し違う、私は流されてきたの」


「どんぶらこどんぶらこ」


「そんな悠長な感じじゃなかったけど、大方当たってる。どちらかいうと、どどー、って感じ。桃にも入ってはないけどね」


彼女は口を縦にすぼま急流の水の音を真似ている。


「誰が君を流したんだろう?」


「さあ」


「君はもう少し現実と遊んだ方が良い」


「ほら、やっぱり。女の子のことなんて何も分かってない」


「君が嘘をついてるとか、妄想を語っているとか、そういうことを言いたいわけじゃない。ちゃんと『世界の果て』を探した方が良いんじゃないかってことだよ」


「だからこうして山に登ってるんだよ?別にただ登山がしたくて山を登っているわけじゃない」


「前行った鬼のミイラ展だって、特に進展はなかったよね?」


「ちゃんとあったもん」


彼女は今にも爆発してしまいそうなほど激しく熱を放出する太陽を見上げながら答えた。


「前はなかったって言ってたけれど、例えばどんな進展があったのかな?」


「あのさ、君も私のおかけで忘れてたこと思い出したって言ってたよね?」


「言った」


「君にとって有意義なら、それは私にとっても意味のある時間だったんだよ。だから私は君と一緒に行けてよかった。それでこの話はもうお終い」


彼女はそう言ってミイラ展の話を強制終了させた。彼女がこの話は終わりというのなら、これで終わりだ。僕も無理に問い詰めるつもりはない。


「でも実際、君だって早く元の世界に帰らないといけない。夏休みの宿題があるでしょ?」


彼女には大雑把な気質があるとはいえ、宿題は期日までに終わらせる子だろうから、本当にそう思っていた訳では無いけれど僕はあえてそういう聞き方をした。僕なりのユーモアだ。


「君だってろくに宿題なんてやってないじゃない?」


彼女は僕のユーモラスな質問に対して現実的に聞き返した。


「僕はいいんだ。僕の学校での評価は宿題をやったぐらいで回復しないところまで落ちてるから」


「それは君のせいじゃないでしょ?こんなこと、お父さんを慕ってる君に言うのは違うかもしれないけど、君は巻き込まれただけだよ」


僕は学校で浮いた存在だった。当たり前だ。父の盗作疑惑がニュースで広まってから、僕の数少ない友達や今まで話したこともない生徒が大勢僕にそのことを面白がって聞いてきた。僕はその人達への回答を無視し続けた。最初は父の名誉を晴らそうと説得していたけど、そんなものに意味が無いと分かってからは抵抗するのをやめて以前よりひたすらピアノと向き合うようになった。その態度がみんなの反感をかった。結果僕は学校内で1人になり、嫌がらせを受けるようになった。


「僕は巻き込まれたんじゃない、自分で自分の評価を下げたんだ。人からの評価なんてものはね、結局のところ自分のせいなんだよ。どんなに言葉や体を重ねても、皆自分以外のことなんて指先程も理解できはしない。他人の本質を知るには人の寿命は短すぎる」


彼女は黙って、僕の瞳を覗き込むように聞いていた。僕の全てを見られているような気がして、僕はどこからともなくやってきた雲に視線を移して話を続ける。


「だから人は簡単な物差しで人を測る。イメージ、外面、ある程度の基準が決まっているからそれに準ずる。要は、それに従えば良いんだ。父さんのせいで僕が皆に悪いイメージで図られているんだったら、僕自身がその簡単な物差しの基準に自分を合わせて変わればよかった。難しいことじゃない、どうせ皆深い部分なんて見ていないんだから、小綺麗な服に着替えれば良かったんだ。でもそれをしない選択を選んだのは僕自身で、僕のせいだ」


「君の話、何となく分かるよ。あ、でも女子高生はイメージじゃないよ?女子高生は女子高生っていう学術名だから、制服は着脱できない」


彼女は優しい笑みを浮かべてそう言った。でも、何故だか僕には泣いているように見えた。


「そうだね、猫と同じだ」


僕がそう言うと彼女は満足そうに制服姿を見せつけてから再び話を戻す。


「なんで君は自分で選んで皆から嫌われるイメージを着てるの?」


彼女に質問されると、答えずにはいられないような、そんな感覚になる。


「別に僕だって皆から嫌われたいわけじゃないし、ひとりで居たいわけでもないよ。休み時間には友達とふざけ合って一緒に昼食を食べて、放課後にはゲームセンターで夜ご飯をかけて勝負したり出来たらとても楽しいと思う。でも、僕は父さんを捨てることができなかった。どうしてもそれだけは無理だった。僕にとって父さんと父さんの曲は生きる意味だった。だから、たとえ皆から嫌味を言われたりバカにされたりしても、一緒になって父さんを貶めることだけはできなかったんだ。」


何故だろう。今日の僕はよく口が回る。彼女といると多くのことをさらけ出してしまっている気がする。そのうちホクロの数まで言い出してしまうかもしれない。


きっとこの森のせいだろう。太陽の放つ光線は世界を焼き続けてるけど、森の中は木々が作り出す新鮮な空気の幕で光線の暑さからかろうじて守られていた。だから現実味が薄れていて、ここでなら何を言っても明日には全てなかったことになるような気がした。切り株と彼女の飲むコーラだけが僕を現実につなぎ止めていた。


鬼のミイラ展で思い出した父との記憶も、僕がこんなにも人に心の内を話す気になった要素だったかもしれない。


「それが君の良さだよ。君は他の人より強い芯を持ってる。それはとても重たくてほつれだらけの服かもしれないけど、私はそんな君で居続けて欲しいって思う」


普通の高校生では恥ずかしくて言えないようなことを彼女はなんの躊躇もなく言ってしまう。


それが彼女の良さなのだろう。


「話しすぎたね、ごめん。そろそろ山を登ろう」


山登りを再会するために僕はそう言って立ち上がる。結構話し込んでしまったため、太陽は少し傾きを変え、ここに来る前よりも雲量が増えていた。雨が降るのかもしれない。


「君がこんなにも色々と話してくれるとは思わなかったよ」


彼女は柔らかな声でそう言うと立ち上がり、手を高く伸ばしゆっくりと深呼吸した。彼女の首筋に健康的でしとやかな汗が滑り落ちていたが、疲れている様子はなかった。


山登りを再開してしばらくすると、ふと道の脇に小さなけもの道が見えた。僕は止めたけど、彼女は僕の忠告を無視してそのけもの道を突き進んだ。その終点には1軒の小さなくたびれたログハウスが腰を据えていた。その風貌はどことなくいつもの廃校舎を連想させる。


庭の入口には小さなポストと看板が身を寄せあって立っていた。看板にはかすれた丸い文字で文字が刻まれている。


『ようこそ

-魔女の家-』


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