〈5章〉記憶と父の曲


4歳の時、父に連れられて小さな町はずれの神社に行った。海の近くで、潮と焼けたアスファルトの匂いが風に乗って漂っていた。周りに人はほとんどいなかった。家も少なく、辺りには海水が砂浜に乗り上げる音が静かに、でも力強く響いていた。そんな辺鄙な場所に何故父と二人で訪れたのか、僕は覚えていない。計画立てて向かったのかもしれないし、近くに用事があってその途中で偶然見つけたのかもしれない。記憶は鮮明に残っていない。カビが生え、朽ちていく。時々正しく洗濯しなければならないのだ。その点で言えば、この記憶はかなりのカビに蝕まれていて、色は変色しほわほわとベタベタの2種類のカビが記憶の原型を分からなくしていた。しかし何の因果か彼女の選んだ鬼のミイラがその記憶を引き揚げ、綺麗にカビを拭き取った。


神社の中には波の音すら響いていなかった。無音。その空間において、音は意味を持たないのだと、存在できないのだと、そう神様に言われているような気がしたから、僕と父はほとんど口を聞かなかった。口の代わりに目の意識回路を激しく消耗した。僕のいつもの意識の接続術は父親譲りだった。そうして境内を観察すると、本堂より奥の薄暗いところにそれはあった。小さな鬼のミイラ。十報大乗院にある2m越えのミイラとは真逆のその小さな鬼ミイラは不思議とまだ生きているように感じられた。


「まだ血が通ってるみたいだ」


父は静かに澄んだ声で言った。


「うん」


父と同じ事を感じれたことに意味もなく嬉しくなった。子供の頃の僕は、家庭環境が少し複雑だったから周りよりは色々と考えることがあったけれど、年相応の子供っぽさは備わっていたと思う。ハンバーグが好きで、ブランコに30分揺られても飽きなかったし、父と同じことを考えただけで自分が認められているように感じた。


「少し怖い」


静かに張り詰めた声で僕はそう言った。


「怖がることは無い、実際にこの鬼のミイラがい生きているわけじゃない。実在したのかどうかすら曖昧だ。」


父はその細く長い指で僕の頭を撫でながら話を続ける。


「でもね、実在したかどうかなんて問題じゃないんだよ。この小さなミイラはきっと、当時の人々に求められていたんだ。平和や繁栄の象徴として、強く願いと責任を込められた。そしてそれは今も流れている。今、俺やお前が感じているものの正体もそういったものだろう。」


「よく分からない」


「いづれ分かる、俺の子だ。いいか、よく聞くんだ。俺はこの小さな鬼のミイラのような曲を作りたい。実在だとか、生死だとか、ミイラだとか、そんな細かいことはどうでも良い。血を通わせる曲。流動的で概念的な曲。俺が譜を書いて、奏者がその曲に想いを込める。それの繰り返し、そして皆が忘れても、古びて朽ち果てた楽譜入れの隅で流れ続ける曲」


そう語る父の言葉はあまり理解できなかったけど、父はとても澄んだ目で僕と小さな鬼のミイラに語った。


「よく分からない」


僕は言う。


「いづれ分かると思うけど、無理に分かり合う必要も特にない。考え方の違いだ。」


父は語る。


僕らはその小さな鬼のミイラにそれぞれ思いを流し込み、その神社を去った。最後に目に映った鬼のミイラは、少し重くなっているように見えた。


その次の年、父は有名になった。そして僕が高校2年に進級した今年の梅雨に首を吊った。



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どうして忘れていたのだろう。これは僕がピアノを弾く上で、父から受け継いだ重要な意味を含む記憶だった。毎日綺麗にピカピカに磨いて、僕以外は分からない場所に厳重に保管されなければいけないはずの記憶。忘れるはずがない。カビなど生えるはずが無い。


今僕がピアノを弾く意味だった。無感情な民意で父の曲は汚されてしまった。父の曲には、ありもしない憶測によって湧いた無数の軽くて汚い埃のような想いが流れてしまった。僕にはそれが許せなかった。多くの人の想いが永久的に流れる事を思って作った父の曲に、無意味で残酷な埃が大量に混じるなど、僕には耐えられなかった。


父は批判に耐えられなくて首を吊ったのではないと僕は知っている。父は自分の曲が、人の想いを流すあの小さな鬼のミイラのような役割を担えなくなったことを悟り、首を吊ったのだ。熱狂的な怒りが流れたならば父は首を吊らなかっただろう。父は自分の作った曲に流れる想いの軽さや無目的さに耐えられなかった。だから眠ったのだ。あの時の鬼のミイラを夢に見続けるために。


父が死んだ後、僕は父の曲を弾き続けることに決めた。今は批判されても、いつか絶対に父の作った曲に人々の密度の高い想いが乗ることを信じて。流れを止めることだけはしたくなかった。


でも僕は忘れていた。正確に完全に忘れていた。

何故忘れていたのだろう。思考がまとまらない。外で不機嫌そうに雷と雨が駄々を捏ねているせいだ。何をあげたら元気になってくれるだろう。ハンバーグを食べさせてブランコで遊ばせたら笑顔を見せてくれるだろうか。


「ねえ」


ハンバーグよりタピオカの方が好きだろうか、ブランコよりSwitchの方が楽しがるだろうか。僕はまだまだ子供だけど、現代社会というのは移り変わりが激しいから、僕が子供の頃常識だった物は既に化石となっているのだろう。タピオカももうだいぶ化石だ。もっと思考をアップグレードしないといけない。


「ちょっと」


隣町からやってきた積乱雲の雨宿りも兼ねて、博物館に併設しているレストランに入り二人で食事をしている最中、彼女はテーブルの下にある僕の脚を強めに踏んだ。


「女の子は人の脚を思い切り踏んだりしたらダメだよ」


「男もダメでしょ」


「男でそんなことをするやつは男じゃない。生物学的雄なだけであって人間的男じゃない」


「どうでも良いけど、二人で食事してるんだから急に黙って考え込まないでよ」


「ごめん」


僕が悪い。僕しか悪くない。だから素直に謝る。


「そんなに何を考えてたの?」


僕は何を考えていたのだろう。まとまりがなかったから適当に答えた。


「化石になったタピオカについて」


「変なの」


彼女はそう言うと珈琲を1口飲んだ。


彼女はいかにも映えそうなふわふわないちごパンケーキを食べ、僕はデミグラスソースがたっぷりかかったハンバーグを食べていた。こうして考えると、ハンバーグはまだまだ現役のようだった。


「どうしてあの小さな鬼のミイラを選んだの?」


少し不機嫌そうにパンケーキを綺麗に切り分ける彼女に、僕はそれとなく聞いてみた。


「どうして?うーん、ほんとに僅差だったんだけど、強いて言うなら、あの子には何か、特別な何かが詰まっているように感じたの。ただ単に他よりも小さかったから密度が多いように見えただけかもだけどね」


彼女はナイフとフォークの動きを止め、窓に打ちつけられた雨粒の行方を目で追いながらそう言った。


「君の言おうとしてることは何となくわかるよ」


「わかるの?すごく曖昧なことしか言えてないけど」


「ただ何となく、わかるんだ。とても共感できる」


「そういうものなの?」


「そういうものだよ」


彼女は理解に苦しむ顔をしていので僕は話題を変えた。


「ところで、『世界の果て』について何か進展はあったのかな?」


僕の問いに彼女は特に興味なさげに言った。


「ああ、特に何も成果はなかったよ。最初からあるとも思ってなかったけどね」


そう言ってケラケラ笑う彼女の笑顔は、触ったらいまにも割れてしまいそうなシャボン玉のようにキラキラしていた。


「そうか、まあそっちはまた今度探そう。とにかく、今日は誘ってくれてありがとう」


記憶を引き揚げてピカピカに磨いてくれた小さな鬼のミイラと彼女に素直にお礼を告げる。


「変なの」


素直にお礼を言う僕のことを不審がりながら、彼女は残りの珈琲を飲み干した。


僕たちがレストランでの食事を終えた頃、積乱雲は既に淘汰され、強い太陽光が地上に降り注ぎ雨で濡れたアスファルトを輝かせていた。


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