〈4章〉鬼のミイラと父
博物館は夏休み相応の活気で溢れていた。特に今年の夏の暑さも相まって、多くの人々が太陽から隠れるようにこの博物館に集まっている。
チケットカウンターで業務をこなす女性の営業用の笑顔も、多忙な業務で幾分か曇っていた。その端正な顔立ちを際立たせる丸いメガネも、普段より数ミリ下に腰を据えているように感じられた。最も、カウンターの女性と僕は初対面なのだから、そう感じたというだけだけれど。
僕が2枚のチケットを購入しエントランスに戻ると、彼女は大きなガラス窓を隔てた向こう側の空を眺めていた。一般的な基準で見ても、彼女の容姿は整っている。特別な美女という訳ではないけれど、街を歩けばいくつかの視線を集めたし、更にその中の何人かは声をかけた。
彼女は僕に気がついてこちらに視線を戻す。
「ありがとう。すぐにはいれるのかな」
「通常展示は整理券が必要だったけど、鬼のミイラ展の会場にはすぐ入れるみたいだよ」
「みんなは興味無いのかな、鬼のミイラ」
「みんなはこんな暑い時に干からびたものを見たくないんだと思うよ」
僕は特に中身のない言葉を返したが、彼女は真剣に考える素振りを見せる。
「余計なものが削ぎ落とされてて私は涼しさすら感じるけどな」
彼女はこれから出会うミイラ達をそう援護すると、入場ゲートに体を向ける。
体の質量が失われる代わりに、ミイラにはその長い歴史が詰まっているのだろうと僕は思う。
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会場内に人は少なく静かだった。さっきは適当にああ言ったけれど、実際、鬼とミイラ、非現実的な要素が2つも重なると人は逆に興味を持てないのだろう。頭の中のデータ不足から来るイメージの欠如。時間におわれた現代人にそんなものの解明を行う時間も興味もあるはずがない。
中には多くの鬼のミイラについての資料が並べられ、実物も置かれてもいたが、現代人の僕は特に興味を持てなかった。どの資料も似たようなことが書かれていて、学術的な研究結果なども展示されていたけど、要はほとんどが偽物だった。他の生き物の骨を使って作られていたり、資料自体捏造だったりした。
早々に飽きて会場内をぶらぶらしていた僕とは裏腹に彼女は資料の一つ一つを丁寧に読み、その度に難しい顔をして考え込んでいた。どうしてそこまで熱心になれるのか僕には理解できなかったけど、彼女は時間に追われていないゆとりのある世界から来たのかもしれない。もしくは意外と博識な子なのかもしれない。
「やっぱり、鬼とミイラっていう欲張りセットがたまらなく良いね」
一通り回ったあとで彼女は僕にそう言った。いつだって彼女は僕の想像の上を行く。
「お気に入りはいた?」
「うーん」
彼女は頭の中に今日見たミイラ達を泳がせながら考えていた。
「中々に難しい質問だね、どの子にも魅力が詰まってる」
彼女はきっと、鬼のミイラの実在の有無なんて気にしていないのだろう。桃太郎と同じだ。
「僅差だげど、私はあの子かな」
ミイラたちが泳ぎ疲れた頃、彼女は1枚の資料写真に僕を案内した。
小さな資料で、僕が通った時は見落としていたけれど、その資料には地方の小さな鬼のミイラの写真が掲載されていた。
僕はその鬼のミイラを知っていた。正確にはその写真を見て思い出した。小さい頃、父と一緒に訪れた小さな神社で、そこに祭られている小さな鬼のミイラを見たことがあった。
僕の記憶の海でその小さなミイラが海底に眠っていた記憶を引き揚げる。
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父は僕が5歳の頃、才能に溢れたピアニスト兼作曲家として名を広めた。最盛期では、業界の多くの人が父の演奏を絶賛し、父の曲を舞台で弾いた。世界とか日本中とか、そんな大層な範囲ではなかったけれど、ピアノを弾く者であれば一度は聞いたことがあるぐらいには売れていた。
そんな父が死んだのは、夏休みに入る少し前のことだ。大気の水分量が多く、蒸し蒸しとした日に父は首を吊って死んだ。
僕は父を尊敬していたし、父も僕を愛してくれていたと思う。僕が3歳の時に母が家を出て行ってから、父は男手ひとつで僕を育ててくれた。出来の良い父親ではなかったけれど、不器用なりに努力していた。僕たち親子の日常のほとんどがピアノを介して流れた。僕がピアノを始め、魅了されたのは、ピアニストである父の元に生まれた時点で決まっていたのかもしれない。
父が知り合いから借りていた防音室付きのアパートで、父は作曲し、僕はピアノを教わった。父が死んでから、父との信頼など消え失せていた不動産の持ち主は厄介払いをするように僕に転居の話を持ち出してきた。だから、ピアノなどおけるはずもない小さなアパートに引っ越した僕にとって、廃校舎のピアノは救いだった。
父の最後を想うと、僕は自分の事のように心が揺れ、意識の回路に熱がこもり、警告音が全身に鳴ってしまう。そういう時、僕はいつもピアノを弾く。
時期が悪かったのだ。ある時、父の曲がイタリアの有名な音楽家の盗作物なのではないかという疑惑があがった。父をすぐ横で見てきた僕にはそれが全くの偽りであることは明白だったけれど、梅雨で陰湿な季節を迎えていた日本人は、溢れた不満の捨て場として父を選んだ。ニュースでは議員の汚職よりも大々的に取り上げられ、業界内外問わず批判された。
一度落ちた父の評判が戻ることはなかった。それまで絶賛され、みんなが弾いていた曲もその輝きを失い、叩かれ、嫌厭された。僕はそんな風潮に抵抗するように、父はすごいのだと主張するように父の作った曲を弾き続けた。しかし僕の抵抗など所詮は広大な乾いた砂漠の砂の1粒に過ぎなかった。
国民の輪から弾かれた父はその後、生きているとはいえなかった。だから僕は、父が首を吊って死んだその日も特に驚きはしなかった。その時既に父の周りには僕しかいなかったから、父の遺体を通報したのも僕だ。それから葬式まで、僕の頭には父の曲が繰り返し流れていた。停止ボタンが壊れてしまったレコードのように。
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