〈3章〉彼女と『世界の果て』

一瞬、呼吸を忘れた。


彼女は気づいたらそこに居た。いつからだろう。随分長いことピアノを弾いていたから、時間の感覚が曖昧だ。ここの管理者だろうか。先生に廃校舎への立ち入りがバレたのだろうか。思考は湧き水のように溢れ収束しない。


「演奏はおしまい?」


彼女が最初に口を開いた。何か返そうとするが、声帯が震えない。意識の回路は声帯に正常に接続されていなかった。


「君の演奏、とても好き。上手く言えないんだけど、水みたい」


水?


意外な感想のおかげで頭の湧き水は落ち着きを見せ、僕は意識を全身に再接続させることに成功した。


「このピアノは君のだった?だとしたら勝手に使ってごめん」


落ち着いた脳で彼女を見ると、どうやら先生とか管理者とか、そういった類ではないことがひと目で分かった。彼女は制服を着ていた。



「そのピアノは私のじゃないから謝らなくて良いよ、むしろ演奏の邪魔しちゃってごめんなさい」


「それなら良かったけど、それならどうしてここに?」


彼女は僕の問に、窓の外を見ながら答えた。


「廃校舎を探索してたらピアノの音が聞こえたのよ、それで、お化けでもいるのかと思って。外までは聞こえてなかったから、安心して良いと思う。音楽室が新校舎から1番遠い場所にあって良かったね」


外への音漏れがないというのは幸運だった。


「それは良かった。僕もここに来るのは初めてだけど、この空間を一日で終わりにするには惜しいと思ってたんだ」


「情報と演奏のギブアンドテイクだね」


ぎぶあんどていく、都合の良い言葉だけれど、それに助けられた僕に何かを言う資格はない。


「なんで廃校舎を探索してるの?」


「思いつきかな、別に探索してるのは廃校舎だけじゃないよ、色んな所を探索してる」


「なんで色んなところを探索してるの?」


「うーん、まあ君になら教えても良いよ。君の奏でる音はとても好きだし、君を信頼するのには充分だから」


演奏について褒められるのは久しぶりだから嬉しいけど、それは僕にはもったいない言葉だということもわかっていた。


「そう言ってくれるのはありがたいけど、僕自身に人の信頼性を勝ち取れるほどの技術はないよ」


彼女はそんなことはどうでも良いという感じで制服の襟をパタつかせ、体温の冷却に務めている。室内がかなり暑いことに今更ながら気がついた。この暑さも僕の耳たぶが溶けるのを手伝っているのかもしれない。


そんなどうでも良い思考をする僕の意識を戻すかのように彼女は僕の正面に来て話を続けた。


「まあ細かいことは良いけどさ、それより私がなんで色んな所を探索してるのかって言うとね。」


暑さにやられた僕の額から、汗が1滴滑り落ち、制服の繊維に溶け入る。


「実は私、この世界の人間じゃないんだよ。別の世界から流されちゃったの、だから、元の世界に戻るための場所を探してる」


僕は自分の耳に意識の回路が正しく繋がっているのかもう一度確認する。大丈夫、エラーは起きてない。


「そういう設定の遊びかなにか?」


僕の返答に対して、彼女は少しムッとした表情を見せたが、本当に怒っている様子はない。あくまで形式的で一般的な感情を見せたに過ぎなかった。


「ひどいなあ、本当のこと言ったのに。まあすぐに信じてくれとは言わないけどさ。私は私が帰るための場所のことを『世界の果て』って呼んでるの。それで、今日は廃校舎を探索しようと思って中に入ったら、お化けじゃなくて君がいたってわけ」


どうやら彼女は本気で言っているらしい。真実とは無関係に、彼女は『世界の果て』を本気で探しているのだろう。


「でも君はこの学校の制服を着てる、別の世界の人間なのに」


「別の世界って言っても、この世界とそれほど変わりはないの。裏と表って表現の方が正しいのかもしれない。ここが表で、私が元々居た世界が裏」


彼女は再び窓際の机に戻り、両手をくるくると裏表させながら話を続ける。


「9と4分の3番線もなければ、積乱雲の中に巨大なお城があったりもしない。モーセが海を割る。キリストが蘇る。ロシアでは革命が起こる。日本は第二次世界大戦に負けて、高度経済成長でなんやかんや発達する。そしてインターネットの網に世界中の人間が囚われる。そんな世界から来たの。魔法のひとつも使えなくてがっかりした?」


「基本的な基準にズレが生まれないから、僕は安心したよ。いつからこっちの世界に来たの?」


「最近。夏休みが始まる少し前くらいかな。それからはずっと『世界の果て』を探してる」


彼女の話には理解できないことが多かったけれど、自然と受け入れることができた。廃校舎の音楽室にグランドピアノ、そういう不確定な要素が多い空間にいたからかもしれない。彼女の言葉も嘘では無いのだと、思うことができた。


「私の予想だと、君はこれからの夏休み、ここに通いつめるつもりなんじゃないかな?私以外の誰かに見つかるまでは」


「僕はこれからの夏休み、ここに通いつめると思う。君以外の誰かに見つかるまでは」


「私も時々ここに来ても良い?」


首を傾げた彼女の長い髪がゆったりと流れる。


「ここは僕の場所ではないから構わないけど、『世界の果て』探しは良いの?」


「もちろんそっちもやるけどさ、息抜きは必要でしょ?それに」


彼女は意識的に1度言葉を区切り、その藍色に濡れた瞳でこちらを見る。次の言葉は何となく予想出来た。外では大きな積乱雲に太陽が隠され、辺り一帯の空気がこれから来るであろう豪雨に震えている。


「これからは君も一緒に探すんだよ」


ゴロゴロとその怒りを表す積乱雲とは裏腹に、彼女はにこやかに、決定事項のように自信を持った声でそう言った。


「興味が無いことはないけど、僕は君からここで成果を聞くぐらいでいいかな」


実際、僕は彼女に対してかなりの興味を持っていた。あまりにも現実とかけはなれたことを話す彼女が纏う雰囲気には、現実の影が落ちているように見えたからだ。しかし、この時の僕は1秒でも長くピアノと触れ合っていたかった。


「君のここでの楽しい夏休みは私の通報次第なことを忘れない方が良いと思うけどな」


彼女は目を細め、意地の悪い笑みを浮かべながらそう言った。それを言われてしまうと僕にはもうどうすることも出来ないことを彼女は分かっていた。選択肢はあれど選択権が付与されていなかった。


「僕は大抵ここにいると思うから、探索に同行して欲しい時に寄ってくれたら一緒に行くよ」


僕の返事に対し彼女は満足気に立ち上がり、僕の前に来て手を差し伸べた。


「それじゃあ、これからよろしくね」


僕はその手を握り返しながら、『世界の果て』について考える。しかし当然これといった結論など出なかった。


外では怒りの沸点に達した積乱雲が全てを流し去るべく窓辺の縁に大きなの雨粒を鋭く打ち込んでいた。

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