〈2章〉廃校舎と彼女


8月3日


夏休みの学校は日頃の喧騒から解放され時の流れを遅らせているように感じられた。校舎にいるのは部活動に励む生徒と補講生と先生、そして忘れ物を取りに来た僕ぐらいだ。


机の中にしまわれていた楽譜を回収し、教室を出ようとした時、窓から見える廃校舎にふと目を奪われた。理由は分からないけど、廃校舎が僕を求めているように感じる。僕がそこに含まれているような、僕をはめ込むことで動き出すような、そんな感じだ。僕はほぼ無意識に廃校舎に向かった。桃太郎が鬼退治に行く運命のように。


鍵はかかっていなかった。立ち入り禁止の看板はあったけれど、蔦が絡まり朽ちかけていてその効力を発揮していない。廃校舎は休暇を楽しんでいる本校舎より静まり返っていて、僕の心音すらもこの校舎全体に筒抜けのように感じた。


僕は迷うことなく音楽室に向かう。場所は不思議と分かった。この校舎に通ったことも、今まで興味を持ったことも無かったのに。その理由はすぐに分かった。音楽室の中心にひとつ、グランドピアノが置かれていたからだ。僕はこのピアノに呼ばれていたのだと、直感で悟った。


音楽室にはグランドピアノ以外にはほとんど何も無かった。全ては新校舎に移されたのだろう。残っているものは掃除用具入れ、机と椅子、そしてグランドピアノだ。電気は通っていなかった。僕は埃を身にまとったカーテンを開け太陽光と空気を室内に送り込む。暖かい光と新鮮な空気によって、音楽室は息を吹き返したように温度感を上昇させる。


僕は掃除用具入れから箒を取り出し軽く部屋を掃除し、雑巾がけをした。その後でようやくグランドピアノに目を向ける。ピアノカバーを外し椅子に座ると、そのピアノと僕が一つであるような感覚に支配された。僕がピアノの鍵盤であり、ピアノが僕の臓器であるような感覚。

僕は慣れた手つきで鍵盤蓋を上げ、キーカバーをめくる。諸々の調整は必要なかった。新品、というより、全てが僕の好みの状態だった。調律もしっかりされている。一体誰が管理しているのだろう。最も、このグランドピアノ以外に人の影は見られないが。


一通りの確認を終えた後、いつもの曲を弾いてみた。父の曲だ。僕と曲は、この音楽室に不思議なぐらい馴染んでいた。空間が僕と父の曲を受け入れ、聞き入っている。僕は夢中になって引き続けた。どこの会場よりも、どのピアノよりも僕と馴染んだこの空間と僕は溶け合っていた。耳たぶあたりは実際に溶けていたかもしれない。


しばらく耳たぶを溶かしていたが、違和感に気づく。先程までは感じ取れなかった気配。僕は意識の回路を鍵盤から目に移し、違和感の方へ視線を向ける




彼女がいた。長い黒髪を風に靡かせ、その大きな瞳を閉じて。

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