雨を呑む

〈1章〉実在と桃太郎


8月の雨は突然に訪れ、全てを洗い流して去っていく。雨に取り残された街では、室内で息を潜めていた人々が再び足を躍らせ再び汚れをつける。


汚染。洗浄。汚染。洗浄。


そのサイクルの中で、僕たちは徐々に無意識に不規則的に、濡れて流されていくのだろう。



━━━━━━━━━━━━━━


8月8日


「桃太郎っているでしょ?」


廃校舎にある音楽室で楽譜を眺める僕に彼女はそう聞いた。


「実在したかは分からないけどね」


「実在性なんてものは今はどうでも良いよ。もし桃太郎がおばあさんに川で見つけて貰えなかったら、今もどこかを漂っているのかな、それってとっても退屈じゃない?」


彼女は窓際の席に座り、外からの風をその身に浴びて暑さを誤魔化しながらそう言った。


「退屈だろうけど、現代に見つかっていれば、鬼なんか倒さずにのんびり暮らせるんじゃないかな」


「でも桃から生まれた子供なんて、すぐに研究室行きだよ、のんびりなんてできない」


「そうかもしれないね、どちらにせよ研究室か鬼退治に縛られるくらいなら、退屈な時間がない昔に拾われて良かったと僕は思うよ」


「それもそうだね」


彼女の返事は既に興味をなくしたかのように潤いを無くしていた。


実際に僕は、桃太郎が今もどこかを漂っていても良いと思う。現代に生まれ、研究所に送られるも仲間を集めて脱出する。そんな話があったって良い。実在性を無視するのであればだけれど。最も、妄想の中で実在性など効力をなさない。そんなことよりはきびだんごの方が大事だろう。研究所で仲間を集めるために、きびだんごを入手することができるのだろうか、おばあさんの元で鬼退治に向かおうとしなければきびだんご自体が無くなってしまう。であれば、、、、、、


「ねえ、聞いてるの?」


「何を?」


「この後の予定について聞いたの、君って時々そうなるよね、話の途中で急に回路がショートするみたいに動かなくなる」


「逆だよ、フル回転させてる」


「そういうのって受け取る側の印象が優先されるんだよ」


「たしかにそうだね、ごめん」


彼女は少し不貞腐れているような、呆れているような顔を僕に向けた。しかし直ぐに笑顔を取り戻し本題に戻る。


「今日はこの後、博物館に行こうと思うのだけど、君にも一緒に来て欲しいの」


「僕はここでピアノを弾いていたいんだけど」


「君の奏でる音はとても好みだけれど、今日は鬼のミイラ展の最終日なんだよ。ここは明日で終わったりしないでしょ?」


なるほどそれで桃太郎か。


「そういうことなら付き合うけど、ちなみにそれはまた『世界の果て』探しのひとつなのかな?」


彼女は頷く。エアコンのない音楽室の中で、彼女の汗が1粒落ち、きらきらと弾ける。


「よくわかったね、以心伝心ってやつ?」


「経験的予測だよ、君が僕を誘う時はいつだってその『世界の果て』の事だから」


「ひどいなあ、そこは心が通じあってるってことで良いじゃん?」


「初めて話をしてから1週間も経ってない僕たちに以心伝心はまだ早いよ、知らないことの方が多いぐらいだ」


「そうだけど、量の問題じゃないよ、質の問題。私は君の素敵な音楽を知ってる。君は私の目的を知ってる。音は嘘をつかないって言葉もあったような、なかったような?」


僕はそうは思わないけれど、否定はしない。考え方の違いだ。


「あと1曲弾いてからでも良いかな?」


「もちろん、君の音楽、とても好き」


彼女はそう言ったきり、目を閉じ耳に意識を集中させた。


僕は鍵盤に指をかけ、意識の回路を遮断する。1音1音、指の神経を鍵盤と再接続させる。


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「君の出す音は、とても信頼出来る」


1曲引き終えた僕に彼女はそう言った。


「ありがとう、でもその言葉は僕じゃなくて、父さんに送る方がふさわしい」


「これもお父さんの曲なの?」


「うん、父さんの曲は良くも悪くも弾き手の意思をあまり介入させない。曲に弾き手が引き込まれるんだ、だから僕以外が弾いても、あまり変わりがない」


最も、僕以外に父さんの曲を引きたがる人はもういないだろうけれど。


「否定はしないよ、考え方の相違ってだけだから、私はただ君と君のお父さんの音楽の両方が好きだって言う感想を受け取って欲しいだけ」


「ありがとう」


「うん、それじゃあ行こうか、鬼のミイラ展」


「『世界の果て』より、鬼のミイラに興味があるように見えるけど?」


「以心伝心って度を越すと怖いよね」


返事はしなかった。僕は片付けをし、彼女は窓を閉める。そして2人で廃校舎の音楽室を出る。外では太陽光が街を焼いていたが、敵意は感じなかった。隣町には積乱雲がかかりゴロゴロとその存在を主張していた。



彼女曰く、彼女は別の世界から流されて来たらしい。そして彼女はこちらの世界で元の世界に戻るための『世界の果て』を探している。当時の僕は、彼女は夏休みの遊びの一環としてそういう設定をつけている、少し頭のおかしい子だとしか思っていなかった。しかし後に僕は彼女に謝罪することになる。彼女は正常ではなかったけれど、正しかった。



これは『世界の果て』を探す話。

それはこれから起こることで、起こってしまった話。

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