神様は大学生(3)
鏡子さんと別れを告げ、家路につく。散歩の帰り道は往路とはまた違った景色が展開されてくる。一度通った道でも、移動のベクトル方向が真逆になるだけで新しい発見がある。散歩の醍醐味だ。
大学の本キャンパスから徒歩5分程度の好立地に、学生御用達の安アパート「満月荘」がある。さらにそこから徒歩10分程度の凡立地に、貧乏学生御用達の激安アパート「亀山荘」がある。いずれも本大学の生徒が圧倒的な住民シェア率を誇っている。満月荘の住人は、亀山荘との生活水準の差を「月とすっぽん」と見なしており、なにかとつけてのろまな亀の貧乏臭い生活を馬鹿にしている。一方で亀サイドは、自身の生活っぷりを「己を律し自己研鑽に努める倹約家」と評価し、現状のポジションにかまけ向上心を失い、亀との競争に最終的には敗北する未来が確定している愚かな月ウサギ共を目の敵にしている。僕はそんな倹約家のタートルたちが集う激安アパートの二○二号室に居を構えているが、傍から見れば五十歩百歩でしかないウサギたちとの因縁なんぞどうでもいいと感じている。ちなみに鏡子さんは満月荘に住んでいる。まるでかぐや姫である。
そうこうしているうちにアパートへついた。郵便受けを確認していると、横から窓がガララと開く音が聞こえた。
「よう、おはよう。」
「あ、絵京先輩、おはようございます。」
絵京先輩、とは僕の研究室の1コ上の先輩である。絵京勇作とかいて、えきょうゆうさく、と読む。先日無事大学を卒業し、来年度から引き続き修士一年生として、同じ研究室でお世話になる存在である。僕と同じ亀山荘の一〇二号室に住んでいる。
「やはりこの時間に戻ってくると思ってたぜ。今日も日課の散歩かい、精が出るねえ。」
「え、ええ、まあ。」
「ここ最近暖かくなってきて、ますます散歩日和ってとこかい。しかしだな、気温が暖かくなってやりやすいのは水泳だってそうだぜ。」
「は、はあ。」
始まった。
「春にやる水泳はいいもんだぞ。優しいお日様の光で反射されたキラキラの水面を一心に嗜みながらよ、思うがままにダイブするんだ。その後はもう俺たちの世界だ。ひらひらと舞う桜を思い浮かべてドルフィンキックを味わうもよし、出会いと別れのエモーショナルな邂逅をイメージしてクイックターンを決めちまうのもよし、にぎわう蝶のイメージそのままにアクティブなバタフライを決めちまうのもよし。」
「そうですね、では失礼します。」
「おいおい、そんな慣れたように言うなよ。お前さんだって今度から4年生の新学期。何かを始めるにはピッタリのタイミングだぜ。バタフライで泳いだほんの小さな25メートルが、将来、俺たちを広大な海へと誘う予想外の出来事へ発展するかも知れないんだぜ。まさにバタフライエフェクトってな。」
「そうですね、では失礼します。」
「BOTかお前は。」
この時点でお察しかどうかはわからないが、絵京先輩はとんでもないほどの水泳狂である。泳ぐことに青春を捧げてきた彼は本大学の水泳部に所属しており、部長を務めていた。そんな彼の実力はまごうことなき本物であり、数々の大会で表彰台の頂に立ってはスイミングの愛を語っている。指導者としても一流で、後輩の面倒見も良いと評判。これは部活動に限らず、僕の研究活動においても頼りになる存在であり、基本的にはとても良い先輩ではあるのだが、ただ唯一にして致命的な欠点は、この尋常じゃないほどの勧誘姿勢であった。
「まあいいさ。4月から始まる新歓で、必ずお前さんを水泳の虜にしてみせるさ。」
「巻き込むのは新入生だけにしてくださいよ。それに、絵京先輩はもう卒業で引退したでしょ。」
「俺からしたら学年問わず、水泳部の補集合みんなが勧誘対象だ。それに、引退はしたが部との繋がりは消えたわけじゃない。今後も引き続き、OBとして関わっていくつもりだ。勿論、変に運営に口出しはしないぜ。OBはOBらしく、影で支えてあげなきゃな。」
「その気遣いを勧誘にも上手い具合に適用してくださいよ。」
絵京先輩は水泳にまつわる数々の輝かしい実績を残しているが、同時に水泳に全てを捧げたがゆえの問題行動も目立ち、数多の伝説が言い伝えられている。一度液体に浸かるとスイミング衝動が抑えられない特性を持つ彼は、湯船に浸かっている最中に、まるでリヴァイアサンのようなパフォーマンスを披露してしまったことから、大学周辺の銭湯をあらかた出禁になっているのだとか。室内プールをアパート内に無断で作成しようとしたところ失敗し、アパート中が水浸しになり、亀山荘が「地獄の竜宮城」と揶揄された時期があったのだとか。後者のエピソードは僕もびしょ濡れになったため事実なのだが。
「じゃああとで研究室でお会いしましょう。失礼しますね。」
「あ、ちょっとまった。」
「なんですか、もう勧誘は嫌ですよ。」
「違うわい。今朝、ついさっきお前さんが散歩している間、客人が来てたぜ。」
「え、こんな朝に?」
「二〇二号室の夕凪さんはどこにいらっしゃいますか、って。すぐ戻ってくるだろうって伝えたけどよ、なにやら急いでいるみたいで帰っちまったぜ。」
誰だろう。全く心当たりがない。何年もこのアパートに住んでいるが、こういう急な来客は初めてだ。
「そうですか、誰だろう…」
「めちゃくちゃ綺麗な方だったぜ。彼女かい?」
「ち、違いますよ。」
「まあその辺深く突っ込まないけどよ、ここの住人は恋愛ゴシップに敏感だからな。なるべく逢い引きにしとけよ。」
「だから違いますって」
「彼女にも水泳の良さ、伝えとけよ」
「ますます違いますって__」
言い切る間もなく、絵京先輩は窓を閉めてしまった。
一体、誰なんだろう。そう思いながら、僕は階段を上がり、部屋のドアを開けた。
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