episode 10 初めてのキスシーン

 あの翌朝、伯父さん伯母さんより先に目覚めた私はこっそり電話を掛けた。福原の「ふ」と「く」から二十九番に登録した禎士くんの番号、最初に映画を観たときに思い出した。朝はさすがに寒い廊下で彼の眠気と不平を訴える素敵な声を聞き、私はあなたのおかげで動けるようになった変温動物だとおどけたら笑ってもらえた。ここは二階ながら、出会ったときと同じく窓の向こうに雪の世界が広がっている。粉雪はいつまでも白い。

「え?」

 映像に驚きの声をあげる高校一年生の私。ペンション下の歩道に雪の精が立っている、先ほど道路が映ったときは無人だったのに。

 私は両親と一緒に自分の過去が題材の映画『まっしろな星のかけらは想いをとばす』を観ていた。最初に伊田家で確認した私は、一人娘の人生が勝手に利用されている事実を親は知っておくべきだし、またその事実を自分一人で抱えるのは怖かったから、恥ずかしいけど両親にも観せることにした。しかし何だこれは、展開がおかしいではないか。

 私はある差異に動揺していた。事実と映画の食い違いじゃない。今自宅を流れゆく映像、禎士くんに電話したところまでは実際の経験かつ伯母夫婦と観た映画の通りだが、そこに雪の精を見つけるといううそが組み込まれているのだ。

 確かに私は前日に「雪の精」を名乗る妙な子供と出会ったけれど、その後雪町を去る日まで接点はあっても初対面の翌日には会っておらず、窓の下どころか遠い雪道の向こうにも姿を見ていない。この映画は怖いくらい私の記憶に忠実だったのに、我が家に来た途端内容が変わるなんて。まさかディスクが変質した?

 そんなわけ……、ないよね。

「何でもかんでも雪を引きすぎってわかるけど、うちだけ回るじゃん」

 休日の来海家に私の知らない「里奈」役の台詞が響く。映画は雪の精の出番が増えて前回観た話や本来の過去からずれ、それでもまだ〝前半とつながる一つの話〟の体裁は維持していたが、とうとう胸をぎゃっと痛めつける大変化が雪の精ではなく禎士くんによって起こされてしまう。

「なっ、何だこれは!」

 お父さんが厳しい声、当然である。好きだとわかっても告白しないのは変わらなかったけど、目を丸くして動けない少女は父親の前で中学生の少年に唇を奪われていた。

 ファースト、キス?

「うそ……」

 本当はしていない私の感情は吐息に紛らすのが精一杯。どうしようどうしよう、だってこんなこと何もなかったよ? 大切な初めてのキスなのに目をつぶってないしあああああ頭をぐりぐりえぐられる、本当に痛くって、でも私じゃない映画のうそなんだ!

「あっ。ちっ、違うから」

 棒立ちしていた私ははっと我に返ってしゃがみ込み、額の汗を拭う。お父さんに恋を知られるのは死ぬほど恥ずかしかったのに、どきどきのうそキスまで見せる羽目になるとは。そのお父さんは私を振り向きもせず、「里奈に、山のあやかし、そんな……」とぼろぼろつぶやく始末。本物の私は映像の「里奈」とは違い、高校に入ってなおキスの味を知らないんだよ。

「ねえ里奈、旅行の後で里奈が怖い夢とか、短い間だけ変だったのはキスのせいなの?」

 お父さんより〝軽症〟なお母さんがほほ笑み、隣に落ち着けない身体を腰掛けた私に訊ねた。恋はしてもキスしてないから違う、過度のこだわりだと言われるにしても首を横に振る私。

 前回伯母夫婦の家で観てわかったというか思い出したのだが、私の様子が変に見えたのは旅行の後毎晩のように続く悪夢だけでなく、禎士くんへの恋がキスなんてされずに私の中で勝手に終わったせいだろう。どちらもお母さんの心配が短い間ですんだ理由は、おそらく失恋の傷が癒えるより早く禎士くんと恋の存在を忘れてしまい、また悪夢を見てもいちいちお母さんに訴えなくなったから。映画にない旅行後の記憶は今もあいまいだけど、悪い夢なら今朝も見た。

 そして失恋といえば、一足先に映画を観た伯母さんが言っていたこと。

 ――わがままな里奈ちゃんが雪町でとてもいい経験をして、大人になったのがしっかり描かれてたわ。

 この「とてもいい経験」が禎士くんとの関係を意味すると、私はこちらも伊田家で映画を観てわかった。ただ彼と知り合った当日に「あの子は誰だ」と問いつめられ、後で彼があいさつして友達と認められたのだけど。とにかく恋に落ちたのは私だけで、キスなんてDVDの大うそなのだ。

 また友達の花が、映画のことをこう言っていた。

 ――里奈ってあの旅行の前後で変わったんだよね。それが描かれてた。

 あのとき笑みを浮かべた理由は私の恋を映画で知りながら隠したせいだろう。私は伊田家で映画を観て失恋を思い出すまでそれにも気がつかなかった。

 うわっと、意識が現実に引き戻される。道路でスケートボードをあやつる音、感覚が過敏な私は苦痛に目を細めてただ耐えた。

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