第15話 中毒から溶ける時

 再検査は無事に終わった。結果は一月後に郵送されるらしい。


「食事改善してウォーキングも始められたんですね。体重も落ちて努力されてるのが目で分かります、無理ないように継続して下さい」

 担当してくださった女医さんはとてもやさしい感じのいい先生だった。


「腰の痛みがひどいときは無理に歩いたりしないように。何気ない動きで痛めることもありますからね。腰の筋肉を伸ばしたり、腰の反りを減らすといったストレッチを行うことでも腰痛改善に効果がありますから部屋でもできる運動もやってみてもいいかもしれませんね、頑張ってください」

 ニコッと微笑まれてニコッと微笑み返す。やさしい先生は笑顔もやさしかった。


 検査結果まではまだわからないが、先生からの指導はとても感触が良かったし職場への報告もそこまで悩まなくてもいい気がした。



(はぁ、良かった……)



 検査のために月曜の午後は半休をもらった。午後からずっと検査して帰路は定時よりも遅くなってしまった。買い物でもして帰ろうかな、そう思って駅を通り抜けようとした時だ。


「あ……」


 スラッとしたその姿は人混みの中でも目を引いた。

 見つけただけで勝手に胸が高鳴った。会社で見かけた時とは違う、外だからか、周りの空気の中でひときわ目立つ、そこだけが光っているように見つけてしまう。


「巽さん……」


 あれ?もう仕事が終わったのだろうか、少し早い?そんなことを思って腕時計に目をやった。巽さんはいつも残業するくらい忙しい人だ。月曜の定時過ぎにあがるのなんか珍しい気がする。そんなことを考えつつ巽さんの姿を遠目に見つめていたら巽さんの周りの人混みがふわっと開けた。そこで初めて気づく。


「――え」


 その時初めて気づいたんだ。

 いや、気づいてたのに気づかないふりをしていただけかもしれない。だって考えたらわかること、わかっていたのにどうして忘れていたみたいに考えていなかったんだろう。


「そりゃ、そうだよね……巽さんだもん」

 社内でもだいたいの女性社員が胸ときめかせている人だ。みんなが自分ももしかしたらと期待して巽さんの横に並ぶことを夢見ている。巽さんはそういう人だった。


「――そっか……」

 ひとりでいるのに勝手に心の声が言葉になって落ちた。誰に話す言葉じゃない、ただ自分自身に言い聞かせているのかもしれない。心の中だけでは留めきれなかった、吐き出すしか出来なかった、そんな気持ちだった。


 前に進もうとしていた足が前になんか進まない。私の足は勝手に後ずさって気づいたら後ろを向いて避けるようにその場を離れた。



(買い物、行かなきゃ……牛乳、なかったし、スープの素も買いたいし……)



 必死で日常のことを考えて歩く足を速めた。とにかくその場を去って思考を切り替えようと思うのに余計に考えてしまうから人の脳はやっかいだ。嫌なことほど胸がどきどきして心を搔き乱してくる。


 気づいたら走っていた。

 走っていても遅くてはたから見たら走っているとは言えないかもしれない。でも私なりに走った、全力でただ逃げるように走った。



 息が乱れる。

 息が苦しい。

 鼓動が速まって、どんどん苦しくなる。


「はぁ、はぁ、は、っ、ぁ……」


 たった少しだけだ、走った距離なんか。歩いていたって息が切れるのに走るとこんなに息が切れるものなのか。私にランニングなんかもう夢のまた夢の話だよ、ひろちゃん……。


 走るのなんか、無理だ。

 私にはきっと走れない、歩くので精一杯。

 駆けだしたい気持ちがあっても、体はついていかないんだ――。


「しんどっ……」


 乱れた息を整えようとしても心臓はバクバクして喉が枯れたように乾いている。肩で息をしてなぜかどんどん息が乱れる。


 どうして――。


「ひっ……」


 泣くなんて馬鹿げている、泣くほどのものを自分が抱えていたのだろうか。


「う……ぅぅっ」


 人目がある、すれ違う人に見られている。

 太って丸い体をさらに丸めて泣く姿はさぞ滑稽だろう、みすぼらしい、きっとそう思われているに違いない。

 だから泣くな、泣いちゃダメ、自分に言い聞かせているのに溢れてくる涙が止まらない。


 だから勘違いするなって、何度も言い聞かせたじゃないか。

 巽さんに恋なんかしちゃいけない、好きになるなんておこがましい相手だって。


 しかも――私がだ。


 バカみたいに甘い時間に錯覚して、その甘さに溶けて気づいたらハマっていた。抜け出せなくなった甘い蜜の味を知って、余韻が次を誘惑する。忘れられなくなる、もっと欲しくなる、そしてやっぱり手を伸ばして満たされたくなる。


 スイーツと一緒、甘味の中毒性はひどいんだ。

 巽さんは――甘いスイーツと同じ。私を狂わせて求めさせる魔性の人。

 でもどうしてそれを巽さんのせいにしたの。違うでしょ?


 ――好きになったのは私じゃないか。


 巽さんはなにも私を誘惑なんかしていない。ただ横に座って自分の時間を楽しんでいただけ、そこに私がたまたま一緒させてもらっていただけ。それを特別と感じて勘違いしたのは私の勝手だ。


「……椛田さん、だよね、あれ……」


 椛田はなだ華澄かすみさん。自社の高嶺の花と囁かれている受付嬢だ。その名の通り華やかな容姿とスラッとした体型に澄き通るように綺麗な白い肌。そんな美しい彼女はたくさんの男性社員や外部の人間から口説かれていると耳にしている。一度落とし物をして声をかけられたときもとても優しく対応してくれて好感度しかなかった。


 だからお似合いだ。好感度の良すぎる見た目も麗しい二人。横に並ぶだけで絵になる、どちらも相手に相応しく、誰も文句も意見も言えない、そんな二人。


「……素敵だったな……」

 涙を拭いながらそんな言葉をこぼすくらいしかできない、それが私だ。羨むだけ、憧れるにも遠いほどの羨望、そこには絶対たどり着けない、ただそれを思い知らされた。


 とぼとぼと歩く帰り道。

 スーパーに寄ろうと思ったけれど、気づいたら家路を歩いていた。この先にはもうコンビニくらいしかない。


「あ、牛乳……」

 それくらいは買って帰ろう、どうにか気持ちを紛らわしたくなった。気持ちが、心が、時間が経つほどに重く虚しくなっていたから――。


 コンビニに立ち寄るのは久しぶりだった。常連くらい足を運んでいたのになんだか不思議だ。


「コンビニは無駄なもんしか買わないから極力行くなよ。杏は菓子パンの誘惑に弱いから」

 ひろちゃんに最初にそう釘を刺されてからはコンビニ前を通るときは念仏を唱えるくらい無心で目を瞑って通過するくらい意識して避けていた。そのコンビニに入って店内をくるっと回る。


 久々のコンビニ。

 変わらない商品はもちろんあるけれど、新作のラインナップ、おでんも始まって店内にどこはかとなく匂う香り。ひろちゃんじゃないが誘惑がすごい。菓子パンどころではない。


「美味しそう……」

 パンコーナーに立ち止まってぼんやり見つめる。大好きなパン、毎日食べて一日中でも食べてられる大好きなパン。それをもうここ最近ずっと食べずにいた。我慢して我慢して耐えて耐えて食べちゃダメと自分を戒めてきた。


「どうして……我慢できていたんだっけ」

 どうして、我慢できていたんだろう。


 ――誰かの為が……一番頑張れんじゃん


 ひろちゃん……もう頑張らなくてもいいようになっちゃった。


 私はカゴを掴み取ると目の前に並ぶいろんな種類のパンをカゴの中に詰め込んでレジまで足を運んでいた。






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歩いて泣いて、走って、笑って sae @sekckr107708

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