第14話 サックスブルーの空の下で

 ひろちゃんのいう停滞期はすぐにやってきた。


(痩せない)


 痩せない、と思うと欲ばかりが沸いてくる。検査はもうすぐだった。まだ五キロの減量まで行けていない、食事改善の意識はしている、歩くことも気にかけている。問診に関して答えられる回答は悪くない気がする。でもまだ目標減量まで行けてはいないのだ。


「でも四キロ落ちたんだよな?そこをもっと褒めていいんだよ、杏」

「……うん、はぁ、わかってるけどっ」

「ダイエットはそういう欲求と歯がゆさの波だらけだよ。もっとポジティブに考えた方がいいって。身体の中は確実に変わってるよ、腰痛はどうなの?」

「うーん、痛いよ。でも、はぁ、まぁ、ひどくは、なってない、かな、はぁ。デスクワークだけどっ、休憩時間は、歩くようにしてる、し、はぁ」

「偉いじゃん!休憩なんか一番ダラけたいのに」

 ひろちゃんはどんなことでも素直に褒めてくれるから育て上手だと思う。すぐにいい気分になってしまう。


「階段、昇ってる」

「すげぇ」

 でしょ?っと自慢気にいうがその目的が実は隠れてお菓子を食べているなんて知られたら呆れられるだろう。


「でもマジでちょっと体力付いてきたんじゃない?今で5000歩超えたぞ、すげぇじゃん」

 お休みの朝、ひろちゃんは仕事のシフトが調整できる日はウォーキングに付き合ってくれていた。


「ひろちゃんと、喋りながらだったら、はぁ、どこまででも、歩けそぉ」

 ぶっちゃけ息は切れ切れだけどその気持ちは本音だ。ひとりだとすぐ疲れたー、休みたいー、のど乾いたー、お腹空いたー、帰りたいー、そんな類の事ばかり考えて精神が保てない。


「歩いてたらさ、周りが目に入ったり頭の中で考えてること整理できたりしていいよな」

 私の目の中に入るのは食べ物屋さんで整理したい事はこのあと何を食べるかとか考えることだよ、はもちろん言わない。


「でも、はぁ、ちょっと疲れた」

「ん。じゃああそこの橋こえたら休憩」

 ひろちゃんの長い腕が指す先を見つめて「ふぅ」と大きく息を吐いてからもう少し頑張ってみる。誰かがいれば頑張れるのが不思議だ、ひとりじゃ続かないと思うことでも誰かが傍で支えてくれることがこんなに心強くて支えになると身に染みて感じている。


(ひろちゃんには本当にお礼をしなきゃ……十万支払っても足りない気がする)


 橋をこえた先の川沿いに腰かけて持参したドリンクを取り出した。


「杏は結局どんなの買ったわけ?」

 ボトルを見ながら興味深そうに聞いてくるその姿がワクワクしてみえるから可愛くて。反応を直に見たくてひろちゃんに差し出した。


「当ててみて?」

「いいの?」

 遠慮がちだったけど興味が勝ったのか。ひろちゃんは一瞬ためらったけれどボトルを手に取りシャカシャカ軽く振ったあとキャップを開けて一口のどに流し込んだ。


「……ん?ミルクティー?」

「大豆プロティンのミルクティー味!美味しくない?」

「うまーい。てか最近のプロティン、マジでうまくなったんだよなぁ、飲みやすくなった」

「大豆は美容にもいいし、ちょっと貧血気味なこともあるから意識しようと思って」

「いいね、意識するってのがいいわ。こういうのは継続して取り入れるのが大事だしな」

 にこっと微笑みながらボトルを返されてそれを私も口に含んだ。


 ひろちゃんがウォーキング後にプロティンを摂取しろと言い、シェイカーをプレゼントしてくれた。プロティンなんか人生で飲んだこともない、味の予想もつかない代物だったが思いのほか美味しくてびっくりした。牛乳で割って飲むと豆乳ミルクティーみたいで気に入っている。やっぱり美味しいものを口に含むだけで楽しさが湧く、継続に繋げられる。


 横で同じようにボトルを口に含んでいるひろちゃんの持つシェイカーは黒色。お揃いで私にはサックスブルー。目に映えるその青が綺麗だ。空みたいに爽やかで、心まで晴れる青。


「そういえば検査はいつだっけ」

「……月曜日。結果はどれくらいで出るのかなぁ」

「体重は確実に落ちてるんだし、意識して運動もしてる、先生にはちゃんと改善した暮らしをしてるって説明してこい。なんでもすぐに結果に出るもんじゃねぇし、医者の方がそんなこと誰よりもわかってるよ」

「うん」

「頑張ってるよ、杏は。おばちゃんたちもちょっとは安心できるといいな」

 ひろちゃんの純粋な言葉に一瞬胸がチクリとする。


 自分の身体のため。

 両親を心配させたくないため。

 未来の自分のため。


 それは嘘じゃない、本気でその思いもある。でも――。


「それだけじゃないの」

「え?」

 頑張りたい理由は、それだけじゃない。


「……変わりたいのは、自分やお母さんたちのためだけじゃない」

 呟いた言葉が風に攫われていく。ひろちゃんの耳にちゃんと届いているだろうか。聞き返されて何度も言えるほどまだこの言葉に自信が持てない。


「……気になる人、いるの」

「……」

 ひろちゃんは何も言わない、それでも私をジッと見ているからきっと聞こえたんだろうと思う。


「会社の、ひと……先輩、っていうか、素敵なひと」

 自分に釣り合うわけがない、遠い人だった。憧れるもない、憧れさえ持てないほど遠くて見つめるのさえ気が引けた様なそんな人だ。


 その人とどうしてか持てるようになった甘い時間。

 今まで知ることさえなかった、甘い時間を過ごしたら自分の中で止められないものが溢れ出した。糖分の中に含まれる中毒性、快感を求めて甘味や糖質の摂取を求め、やめられなくなる。求めだしたら欲するまで耐えられない、その先に待つ禁断症状が出てくるように私の中で芽生える気持ち。


「贅沢なこと、望んでない。ただ、恥ずかしくない自分で、いたいだけ」

 そばにいれるあの時間だけ、横にいても自分が恥ずかしくないようにいたいだけ。


 自分の姿が惨めになった。横に座ってより思うようになる。

 長い手足が、無駄のない筋肉質な体がすぐそばにあったら見惚れてしまった。この人の横に並ぶ女性ひとはこのスタイルに見合う素敵なひとだろうと、そんなことはわかっていた。

 でもきっとこの瞬間、この時間のこの場所だけは自分だけが得た特別で大切な場所だった。


 その横にいるために、少しでも自分を変えたい。

 変わりたかった。


「そこへいくために……自分の足でちゃんと歩いて行きたかったの」

 そこ、がどこかひろちゃんは何も聞かない。私の行きたい先を、なんにも聞かない、ただ沈黙が私たちを包んでいった。


 初めて人に溢した言葉、バカみたいだと笑われるかな。太って食べることしか楽しみもないような私が恋?さすがのひろちゃんにさえ笑われるかもしれない、そう思っておそるおそる顔をあげたら、ひろちゃんは川辺を見つめたままぽつり溢す。


「――自分に一番甘いんだよ」

「……え?」

「人は、自分に一番甘い。どんなに頑張ろうって決めたって目標持ったって折れて諦めてなかったことにしてそれ繰り返す。それでも許しちゃうのは自分自身だから、自分で決めたことだから自分でまた理由つけて投げ捨てられんだよな」

「ひろちゃん?」

「誰かの為が……一番頑張れんじゃん」

「え?」

「誰かのために頑張る気持ちは、奮い立たせる原動力になるだろ。だから一番頑張れるだろ?」


 誰かのために――頑張る気持ち……。


「……いい理由だと思うよ、好きなヤツのために頑張るって」

 ひろちゃんはどうしていつも優しい言葉をくれるんだろう。笑ったっていいのに、笑ってくれていいのに。いつだって、泣きそうになるくらい優しい言葉をくれる。


「バカに、しないの?」

 ダイエット理由がそんな邪な気持ちで、それは言えなかったがひろちゃんは察して返してくる。


「ダイエット目的であるあるだろ、どんな理由でも始めることが大事だし、それを続けることがホントにすごいんだよ。だから杏をバカになんかすることねぇよ」

「ひろちゃん……」


 ひろちゃんの腕がスッと伸びてきて、頭をくしゃっと撫でられた。


「頑張れよ、そいつのために」

 胸がいっぱいになった。

 初めて見せた自分の心の中を、優しく包むように受け止めてくれて、背中を押してくれた。


 頑張ろう、心から思った。誰かのために頑張れる自分がいたなら、今より自分を好きになれるかもしれない。


 この時私はそう思ったんだ。




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