第10話 絡め取られる指先の甘辛ソース

「ガキか」

 くちもとに付着したソースを指先で拭ってくれたひろちゃんはそれをそのまま自分の舌で舐め取ってしまった。その流れるような動作に一瞬固まったがそれよりも先に言葉が落ちてしまった。


「私に協力して」

「――え?」

「この間のお母さんの話。私の体内改造をサポートしてほしい」

「……マジで言ってんの?」

「マジだよ」

「マジかって言うのは、続ける気があんのかって意味だぞ?」

「結果出したい」

 言い返した言葉が意外だったのかひろちゃんは黙ってしまった。


「腰が痛いのは本当……このままの生活していてよくならないって自分でもわかる。少しだけ歩くように意識したら節々に負担がかかってるのも感じた。こんな生活してたらひろちゃんが前に言ったような病気に本当になると思う。それは、嫌だ……お母さんたちも、心配、してるし……」

 言葉を紡ぐ私をひろちゃんは静かに見つめたまま黙って聞いてくれる。その沈黙に甘えて私は気持ちをこぼした。


「でも、やっぱり食べないってするの、無理。ネットや本でも調べたよ?それでも自分のやってることの正解がわかんない、ストレスばっかり増える、しんどいってなる。我慢してるのにってそれでも結果になにも繋がらないから……できる気がしない」

「まぁ……ダイエットってそういうもんだよなぁー。結果が出る前に諦めるのが大半って気がするわ、続かないんだよな、基本」

「誘惑が……多すぎるの」

 素直にこぼしたらやっぱり笑われた。


「強い意志がないとな?食ったもん、ちゃんと記録して人に見せるとかいいよ?」

「じゃあひろちゃんがチェックして?」

「え」

「私の食べたもの管理チェックマンになって」

「なに、管理チェックマンって。そもそもさっき食改善した内容さえ俺に言えなかったじゃん。全部事細かに言うんだぞ?朝昼夜、間食だって全部、コンビニの誘惑に負けたもんもこっそり食べたもん全部隠さず言えんのか?」

「言う」

「本気かよ」

「タダでともいわない」

「え」

 ひろちゃんがその言葉に一瞬前のめりになったのを私は見逃さなかったぞ。だてに幼馴染やってないんだからな、舐めるなよ。大人になってもひろちゃんの癖は変わってない。ひろちゃんは目の前にニンジンをぶら下げられたらがんばっちゃう人なんだから。


「報酬はもちろん払う、金欠なんでしょ?欲しいものあるって……それ私が買う」

「はぁ?!めっちゃ高いぞ」

「え、めっちゃ高いの?ううん、い、いい。買うよ、ちなみに……いくら?」

 めっちゃ高いなら……三万?え、四万とか?五万するとか?いいや、それでも言った手前引けないし気持ちは本気だ。


「十万」

「十万っ!何が欲しいの!」

 思わず聞いてしまった。


「スマートトレイダー」

「す、すま、すまーとなに?」

「自転車ダイレクトドライブスマートトレイダー、略してスマートトレイダー」

「う、うん?」

「ズイフト楽しむ道具」

「も、もうわからん、聞いてごめん、わかんないや!いい!もういい!」

 ひろちゃんの趣味はもう私には理解できる世界じゃない。引きこもり・インドア・運動なんぞ縁のない私に分かる代物なわけがない。それでもだ。


「買うよ、私が」

「マジで言ってんの?」

「その金額出すんだから本気なのわかるでしょ?!そのかわり結果出すのに本気で付き合ってよね?!」

「そんだけの金出せるならプロに頼め。ジム通え」

「それじゃダメなの!」

 なんだか意地になってきて、気持ちが止まらなくなってきた。


「私が今日こんなに歩けたのはひろちゃんとの約束があったから、ここまでって目標があったから。新しいシューズが……私を動かしてくれたんだよ?」

 ひとりではできる気がしない、不安や悩みを……聞いてくれる人がいて欲しい、そう思うのは私の甘えと弱さだと分かっている。

 それでも、踏み出す一歩をくれたのは間違いなく自分だけの力じゃなかった。ひろちゃんが一緒にこのシューズを選んでくれたから……。


「変わりたいの……恥ずかしくない、自分でいたい」

 見つめられたときに、ちゃんと相手を見つめ返せるくらいの自信を持ちたい。


「――結果出すにはそれなりの努力がいるよ。目標はちゃんと持たないとそこには行けない、自分で決めて始めることならなおさら」

「はい……」

「そんで俺はやっぱプロでもなんでもないし、ただの自己流で趣味の域だよ。本気なら余計にプロに頼った方が確実だと思う」

「でも……「でも」

 同じ言葉でひろちゃんが私の言葉を遮った。


「プロよりも俺の方が、杏のこと応援してやれる気はする」

「ひろちゃん……」

「……ひとりで頑張んなくていいんだよ、一緒に……頑張るか」

 ひろちゃんはあの時言ってくれた。小学校で、学校に行きたくないと強張った体で動けなくなった私に、幼いひろちゃんは言ってくれたんだ。



 ――杏はひとりじゃないよ、今日から俺と一緒に登校しよ?



 あの時も、横に並んで歩いてくれた。


「金は……まぁ成功報酬でいいわ。結果が出たらその時話そ」

「それじゃあダメだよ、なぁなぁになる」

「でも俺はプロじゃない、確実なものがないのに金だけくれなんか言えるかよ。杏がブレずに頑張ればいいだけの話じゃん。だから成功報酬ってことで契約成立、な?」

「……わかった」

「ン、食べよ?」

 そう言ってエビアボガドサンドを指さされた。


「うまいもん食ってるときはちゃんとそれを味わって食べる、杏の人生の中で一番大事な時間だろ?」

「――うん」

「杏のなかで大事にしたい時間、失くしちゃダメだよ」

「――――うん」

「ちゃんと食べて痩せる、これが鉄則な?」

「――――ぅんっ」


 〈はむっ〉


 むにゅっと口の中に押し込まれてきたエビとアボガド、そして卵サラダの香りが鼻から抜けた。


「……おいしぃ」

「ん」

 おかしいな、こんなに美味しいのに喉になかなか通らない。胸がいっぱいになって、鼻の奥がツンッとするのはどうして?


 視界がぼやけて揺れている――風が、私たちを包んで新しい場所に連れて行ってくれるようで……。風が――この真っ直ぐな道を吹き抜けていく。


 地獄ロードなんて名前をつけてごめんなさい、ここは地獄の道なんかじゃない。後ろ向きだった過去から未来へ続く、新しい出発の道だったんだ。


 だってきっと……ゴールは見えている。ひろちゃんと一緒なら、きっと、頑張れる。



「ふふ、だから杏さぁ……」

「――へ?」

「今度は鼻につけてる」

「え?」

「ほら……たまご」

 ひろちゃんの指先が鼻のてっぺんに触れて、その指の腹に乗った黄色い卵が実のようで――。


「……ぁ」

 ぺろっとまたその卵を赤い舌が舐め取って食べてしまうから思わず声が漏れてしまった。


「うまっ」

 その言葉に勝手に頬が赤くなった。”うまい”のはたまごだよ、そんなことわかっている。マヨネーズは控えめなのが食べて分かる。ヨーグルトと合えているのかまろやかで酸味があって、そこに辛子を少し加えらえているのかアクセントに香りと辛みが引き立っている。しいて言うならカロリーの低そうな味付けだ、それでもとても美味しい。


「一気に食おうとするから付くんだぞ?気をつけろよ」

 小さい子供に言うように、ひろちゃんに窘められて……家族みたいな、きょうだいみたいな……大人になった今でも変わらない私たちの時間関係が動き始めたのだ。


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