第6話 ブラックコーヒーのストレス

 体重を落とすというのはなかなか容易なことでない。

 増やすのはいとも簡単なのに、減らすのはなぜこんなに大変で難しいことなのだろう。


「……い、一キロだけ」

 体重計に乗ってため息さえこぼれない。最近はひろちゃんに言われたように食べ方を考えているのに、なぜ。


 食べる前に糖質を一番に取らない。まずはよく噛んでサラダやスープを摂取、そのあとメインを食べて最後に糖質。バランスの良い食事を心がけるように言われて食事メニューも意識しているが……。


(なんだろう、普段の食事にサラダとスープをつけてなんだかボリュームが増えただけな気がする)


 少し肌寒くなってきたからスープが美味しい季節になってきた。サラダの代わりに野菜たっぷり入れたスープなんかにしたらより食べている気がしないでもない。でも野菜だ、揚げ物を増やしているわけではないからセーフだろう。

 お通じは良くなった。でも肝心の体重変化はあまり起きていない感じだ。



「朝ごはんのトーストも二枚にしてるのにな……」

 大好きなパンだって制限している。それだけで軽くストレスなのに、変化がないと続けられる自信がない。


(パン一枚我慢してるんだから一キずつ落ちてくれたらやる気も出るのにな……)


 ここでパンをまた一枚追加したらどうなるんだろう、案外体重も変わらないかもしれない、なら食べようかな……なんて弱い私が脳内で囁いていた。


 始めた我慢は、朝のトーストの枚数(一枚減らす)

 朝ごはんのあとのゼリーやプリン。

 お昼ご飯の果物。

 夜ごはんのご飯のおかわりと、食後のおやつ。そして隙をみては飲んでいたカフェオレもやめた。


 超絶ストレス。

 普段摂取していた糖分が明らかに減少してなんなら苛々していた。カフェオレをブラックコーヒーに。飲めないことはない、ブラックコーヒーだって一緒に合わせるスイーツによればとてつもないパートナーになってくれる。でも、ほっこりしたいとき、疲れた時、はぁ、っと心落ちつけたいときにブラックコーヒー……全然癒しがない。ほっこりしない、疲れが取れない、はぁ、がはぁぁっというただのため息。癒される要素がない、超絶ストレス。


 ダイエットってストレスの肩並べなんだな。知っていたつもりだがわかっていなかった。



 ひろちゃんは食べ方さえ考えたらすぐに5キロくらい落ちるなんて言ってくれていたのに……嘘つきめ。1キロの増減を繰り返して大して減らずになんなら過大なストレスも増やして数日が過ぎていて、私は日に日にストレスだけを増やして体重の減らない恨みをひろちゃんに当てつけるようになっていた。



(ひろちゃんの嘘つき)



 再検査の予約日まではまだ日にちがある。それまでに少し体重変化があれば先生にも頑張っていることを記載してもらえるかもしれないと淡い期待を持っていたが、そもそも減らないなら意味がない、やっている証拠がないと努力が立証できないではないか。くそっ。


 簡単に痩せられる方法、すぐ効果が出るダイエット、食べても痩せる、寝るだけダイエット……。


(最近の私の携帯検索履歴ワード……後半なんかもうやる気が見えるな、これ)


 楽して痩せたい気持ちが溢れ出ていた。



「紺野さん」

 どこからかこそっと名前を呼ばれて「ん?」と顔をあげた。きょろっと左右を見渡したが空耳だったのかな、そう思った瞬間後ろ肩あたりをツンツンとされて振り向いた。


「……巽さん」

「仕事中ごめんね、ちょっといい?」

「あ、はい。な、なんでしょう」

 仕事中、巽さんに声をかけられることなんかよっぽどない。思わず身構えたら巽さんは少し申し訳なさそうに伺ってきた。


「事務所の共用してるペーパーカッター、どこにあるか知らない?」

「コピー機の裏にありませんか?」

 共用備品だからだいたいいつもそこに置かれているはずだ。


「なかったんだよね。誰か使ったままどこかにやってるのかな。あれって一個しかないの?」

「もう少しコンパクトなやつならありますよ?でもたくさん切りたいなら時間がかかるかも……」

「そうなんだ、それどこにある?」

「それは……」

 言いかけてやめて席を立った。説明するより行く方が早いと思ったからだ。


「え、いいよ?仕事の邪魔するつもりは……「いいえ、私もちょうどホッチキスの芯がストックなくなってたから取りに行きたかったので。一緒に行きましょ?」

「……じゃあ、ありがとう」

 そう微笑んでくれる笑顔がやっぱり素敵で勝手に胸がときめいた。

 胸の中でいつかの塩キャラメルの味が思い出される。あの甘い香り、優しくて溶ろけるような柔らかかった時間。あの日が夢みたいだったと日が経つほど思う。糖分が減っている今の私は甘い記憶と想像で無駄に癒しを求めてしまうからもうダメだ。


 甘いものが好きな巽さん。この情報はどれだけの女性が知っているんだろう。紅芋モンブランパフェまで作れちゃう神の手までお持ちらしい。きっともっと魅惑的なスイーツを手掛けているんだろうな、そんなことを思いながらこっそり見つめてしまう綺麗な手。



(本当に綺麗な手……男の人の手ってこんなに綺麗なものなのかな。美術館に展示されてる彫刻みたい……)


 どちらかというと色白で、青い血管が浮き出ているけれどそれが気持ち悪いなんてことはなく、むしろ生命力を感じてドキドキしてしまう。そっと自分の手の甲をみてあまりの違いに仰天した。この手の中に血管があるのかと心配になりそうなほど凹凸がなくて丸い、ビビった。


「小さいけどこれで充分だわー、ありがとう」

 ペーパーカッターで書類をサイズにカットするその手を見つめながらそんなことを考えていてハッとした。


「良かったです。大きいのどこ行っちゃったんでしょうね……探しておきます」

「うん、ごめんね。仕事増やさせた。俺も気にかけておく」

「いいえ。小さいのはいつもこっちの棚の引き出しに入っているので緊急時はそれで対応してください」

「了解、ありがとう」

 そう言って巽さんはその場を離れた。スラッとした後ろ姿をこっそり眺める。さっきからこっそりこっそり見つめ過ぎだ、自分に言い聞かせる。



(巽さんは、みんなの巽さんなの。あの塩キャラメルの思い出はもう本当に思い出なんだから……)



 言い聞かせないと蘇ってくる、あの香りが……あの、甘さが。

 あの日感じた喜びが……胸をどうしてもきつく締め付けてくる。それがだんだん苦しくて。


 この苦しさはなんだろう、この飢えは、甘さが足りないから?

 巽さんが……甘さを求める私を苦しめてくる。


 そんなことを考えていないで、気持ちを切り替えて仕事をしよう。そう思いつつ巽さんみたいにオフィス用品を細かく把握していない男性社員はほかにもいるのかもしれないな……フトそんな風に思ってもう少し細かな詳細がわかるデーターベースを作っておいてもいいのかもしれない、頭の中でぼんやり考えつつ自分もホッチキスの芯を取り出して席に戻ろうとしたときだ。巽さんが小走りで私の元へ駆け戻ってきた。


「?」

 どうしたんだろう、まだ切りたいものがあったのかな。それならカッター片付けない方が良かったかな……そう思いかけていたら巽さんが私の前に立ちはだかる。


「え?」

「これ」

 渡されたのはA4サイズの茶封筒。それがちょうど半分に折られて目の前に差し出されて思わず受け取ってしまった。それくらい勢いがあったのだ。断るよりも受け取ってしまうほどの、圧。


「……え?」

「この間のお礼」



(え)


 思わず茶封筒から視線をあげたら巽さんが微笑んでいる、そして腰をかがめて私の耳元で囁いた。


 ”今度はこっち、またあそこで一緒に食べようね”


 固まった私に、フッと笑って、何事もなかったように立ち去った巽さん。コピー機裏の棚の前で立ちすくむ私は震える手で渡された封筒の中身を覗き込んだ。そこには、この間一緒に食べた塩キャラメルポッキーと、もうひとつの季節限定、冬のくちどけ・チョコポッキーが入っていた。


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