消しカスを練る才女のお気持ち、わかるはずもなく。

つきのはい

おおよそ、才女。

「そうだ、木原きはら。よくできたな。みんなも木原を見習うように! あ、もう戻ってもいいぞ」


「はい、先生」


「桂木も戻れ」


「は、はぁ」


 木原さんは学年でも一、二を争うくらいの秀才である。

 それが証拠に、今も私の解けなかった問題をいともたやすく皆の前で解き、颯爽と席へと帰っていく。


 私も彼女の後ろについて席へと戻る。


 その足元にレッドカーペットでも敷かれているのかと疑うくらい、先を行く彼女の後ろ姿はどこか華々しい。


 数学の川井先生は、数分前までのぷりぷりしていた表情から一転、木原さんのおかげでご機嫌を取り戻していたようである。


 教師とは、いつの時代も秀才を好む傾向にあるのだろう。

 また、他のクラスメイトからも、木原さんは秀才そのものに映っていたことだろう。


 ただ私は、そんな木原さんが、教師やクラスメイトの抱くような、本当の意味でのピュアな優等生ではないことをここ数日疑っているところがあった。



 木原さんの席は私の席の隣である。

 廊下側の最後列が私、その左隣が彼女。六月にあった席替えで隣になったのだ。


 彼女は、普段は至って大人しい生徒で、流した黒髪セミロングにロイド眼鏡という、地味を絵に描いたような風貌である。


 定期考査が近付いてくると決まって「五教科は最低四九〇点取らなければ絶望よ」という、嫌味なのか天然なのか判別できないセリフを吐くこと以外は、本当に大人しく見える。


 加えて、彼女のその中身まで地味色に染まりあがっていたわけではないことを、私は知っている。


「ねぇねぇ木原さん」


 授業中、彼女の左隣の女子が話しかける。


「悪いんだけど今日の部活、家の用事でお休みするから先生に伝えておいてくれない?」

「わかったわ」


 木原さんは生徒会に所属し、部活は吹奏楽部。しかもそこの部長さんである。

 ゆえに、同じ吹奏楽部所属のクラスメイトからこうした頼まれごとを引き受けることもある。


 バスケ部に入っている私には、なんだか文化部というもの自体縁遠くまるで親しみがない。


 部活の一環として、校外を何周も走らねばならない時、吹奏楽部の練習と思しき音色が聞こえてこないこともないけれど、ぷふぁぷふぁ演奏する姿は中々目にする機会がない。得られる情報はいつも音色だけである。


 私は割と妄想癖があるのだが、木原さんが楽器を演奏している姿というのを、もう何度も何度も気持ち悪いくらい想像している。


 そうして、この大人しげで華奢な体躯の木原さんが、一生懸命トランペットだかトロンボーンだかの楽器を吹いてやっている所を想像しては、健気に思われて仕方がない。まあ同時に、その姿の愛らしさにクスリとほくそ笑んでしまうのだが、それは内緒である。


 以前、金曜ロードショーで観たスイングガールズ(だったか?)という映画で、あの金属的に光沢を得ている楽器達から一つ一つ音を出す作業には、大層な労力を要するらしい、という事を知った。

 新事実である。

 トランペットもトロンボーンも、まず、吹き方もそうだが、第一に肺活量の調整に悪戦苦闘するという。それを、一見非力に見えてしまう木原さんが鳴らし、しかもメロディアスにやっつけるというのだから、ちょっと私は運動部の一員である事に自信を失いかけるわけである。


 確か肺活量とは、持久力と同じ理屈で人間の身体に備わっていたはずである。


 これはノウキン(脳みそまで筋肉で出来ている)こと体育の矢代田先生が言っていた話だ。


 肺活量も、持久力も、赤血球が沢山あればあるほどハイスペックと呼べるらしい。


 ということはつまり、吹奏楽部の部員らに水泳で潜水をさせたり、トラックの長距離マラソンをさせたら、開いた口も塞がらぬような記録を打ち立ててくれるという事だろうか。その期待は大であろうか。


 想像してみるだけで、なんだか私はわくわくするのである。


 潜水で、他の者達が息苦しくて次から次へと浮上していく中、クラス一華奢かもしれないほど小柄な木原さんが、悠々と水の底に沈んでいる様はまさに爽快かもしれない。もちろん彼女はその顔に余裕の笑みをこぼしている。

 そんな図を思い浮かべて、一体誰がわくわくしないでいられるのか。


 ……。


 木原さんと隣になったからといって、私のIQまでもがかんばしくなってくれるわけではないことに、私はこの一学期で愕然としたものである。

 己の脳は己の研鑽けんさんによってのみ高価な皺が得られるということである。

 ズルはいけない。


 神様も仏様も、ズルは許さない。

 神様も仏様も、きっと天国でやりたい放題ズルをしているのだろうが、他人のズルばかりは許さない。まあなんだかそれもまた理不尽でズルい話である。


 しかし、彼女の隣になってみると、改めて賢い人間の真髄を思い知る。


「よし、それじゃーここの問題がわかる人?」

「はい! はーい!」

「せんせっ、俺わかります!」


 別に授業で、はいはいと騒いで手を挙げている事がイコール賢いという事ではないのだと知る。


 そして、彼女が消しゴムのカスを私の隣でねちねち練っているのもまた、何か考えがあっての事なのだ。


 私の視線に気付かないくらい、木原さんは今机の上の消しカスに夢中である。

 本の虫ならぬ、消しカスの虫である。

 それから、丸くなった消しカスを、木原さんはそれこそ満足げに机の端へとおいやっていた。


 指でねちねちやってたもんだから、どうも指先が汚くなったらしい。

 数秒置きに指先を眺めている。


 せっかくなので、私は持病の鼻炎のために常備していたポケットティッシュを、彼女に渡してあげることにした。


「ありがとう」

「気にしなくていいよ」


 案の定、彼女は控えめに喜んでくれた。

 いつもなんとなく暗い顔(※失礼)をしている木原さんの笑顔は、どこか儚げで、物珍しくて、見た者を少し得した気持ちにさせる能力があるかのようであった。


 木原さんは隣町の中学校のあがりで、私とはもともと学区を画して育っていた人間である。


 高校に上がって初めて知り合ったわけだが、結論から言うと私達は少しだけ打ち解けた仲だった。それは、これから話す図書室でのできごとのおかげである。



 吹奏楽部の部長に、生徒会の仕事もあって、しかも定期考査で毎回高得点高順位をかっさらう事が当然である彼女にしてみれば、読書(※小説の)などという行為は、その行為自体が無意味で、人生の空費、低俗な文化にしか見えないだろうな、と私はそんな風に思っていた。


 それゆえに、ある日彼女を図書室で見かけた時、私はかつてないほど彼女にときめいたものだった。


「ん~~っ」


 背伸びして棚に手を伸ばしていた木原さんは、そこからやっとのことで目的の本を手にしていた。


 それは確かに小説であった。

 参考書や図鑑などといった教養的素材としての書物ではなく、一つの物語。架空の登場人物が、架空の起承転結の中で生きていく、読者にはおよそ確定的な利益がないただの娯楽分野に、易々と手をかけていた。


 私はときめくと同時に、なんだか残念に感じている自分もいたようであった。


 普段教室で見かける、教科書や参考書にかじりついてばかりの彼女は、まるで機械のような印象があった。そう、いつも紙を寸分の狂いもなく処理していく、高性能なシュレッダーのような、そういった冷たい機械だ。


 それが彼女について語る上では欠かせないアイデンティティ的なものだったのに。

 あの機械っぽさが良かったのに。


 ……。


 しかし、決して珍しいことではないのかもしれない。


 頭脳明晰に加えて、趣味が読書である女子は世の中ざらにいるだろうし。

 私の知らないところで、いくらでもその女子達というのが、日夜ほいほい小説の読破を繰り返して娯楽に次ぐ娯楽を満喫しているかもしれないし。


 ただ、木原さんは、私が生きてきた中で初めて現れた才女なのである。

 才女に夢を抱くのは私だけではないはずだ。


「桂木君、奇遇ね。図書室に居るところを初めて見たわ」


 突如、私の視線に気付いた彼女は、臆することなく声を掛けてきた。

 当然私は驚いた。普段教室では一切会話もしないのに、場所が図書室に移っただけで何かしら親近感のようなものを抱かれたらしい。


「わ、割とよく来るよ。木原さんこそ珍しいんじゃない?」


「そうね。私、直接来ることは少ないけど、借りることは多いの」


「直接来ることが少ないって?」


「瀬野君に頼むの。借りてほしい本がある時にはね」


「瀬野?」


「彼、図書委員長で、それに私達のクラスだし。私、結構彼と仲が良いのよね」


 瀬野は、教室のなかで最も浮いてる男子だった。

 彼に友達はほぼ居ないものと思っていたし、それゆえにしゃべる相手さえ学校には居ないのではないかと思っていた。


 あいつ、図書委員長だったのか。と私はその時初めて知った。


 瀬野の話で多少なり私達はくだけた。


 図書室なのに本も開かず、室内に設けられていた長机で時間も気にせずだらだらと言葉を交わした。

 話しこんでいたというよりは、言葉を交わした、という表現がまさに適切なくらいの、言ってみれば話すことを半分怠けていたような、もったりゆるゆるとした遅い会話だった。


 瀬野の話からなんとか授業中の彼女の態度(※特に消しカスを練っていたこと)などに関する話へ派生させたかったが、まあ実らなかった。

 私の性分、引っ込み思案と口下手とが会話を尻すぼみにさせた。


 その日、木原さんと長々話したことで、明日以降、私達はもっと仲を深めることになるのだろうかとひそかに私は期待したものだった。



 ◇


 翌日の昼休み、私は先日まで借りていた本を図書室へ返しにいくことにした。


 図書室内では、木原さん自らその仲を公言していた瀬野が、図書委員の雑務をカウンターの中でこなしているようであった。


 別に私から話しかけようとは思わなかった。


 彼はそもそも私が図書室へやってきたことにも気付いていないだろうし、気付いたところで私達は今まで一言もしゃべったことのない間柄である。

 私は、瀬野について特に何も思っていなかった。

 瀬野の方でも、私について何か思うことはないだろう。

 関係に一切の進展はない。


 そう思っていたのだけれど、私が用を済ませて図書室から出ようとした時のことだった。


「桂木じゃん。あ……そういえばお前、木原さんと最近何かあった?」


「え……木原さんと?」


 カウンター越しにいきなり話しかけられて驚いた。


 それはもちろん、彼のセリフの内容に対しての驚きでもあるのだが、そもそも、あれ瀬野ってこんな声だったんだ。という、彼の声自体に驚いていた節が驚きの大体七割くらいを占めていた。


 瀬野は不思議なくらい影の薄いやつで、本当にたまに「あれ、こんな人同じクラスにいたんだっけ?」という、冗談みたいなセリフをクラスメイトに言われたりしていたほどである。


「別に木原さんとは何もないけど。……なんで?」


「だってこの前、教室で仲良く二人で話してたみたいだから」


 瀬野は、癖なのか唇の端を嚙みながら私の答えを待っていた。


 何かワケがなければ仲良くしてはいけない。みたいなよくわからない方程式が彼の言葉の裏に潜んでいるようだった。


「確かに木原さんと話してはいたけど、瀬野が言うほど仲良くはないと思う」


「仲……。でも、さ、木原さんて、基本的に他の誰とも話さないじゃん。俺、初めて木原さんが自分以外の男子と話してるところ見たよ。なんか感動した」


 それは事実をあげているようでいて、そこそこ失礼ゾーンの内角をかすめている言葉である。いくら木原さんが他人とのコミュニケーションを取らない天性のぼっちガールなのだとしても。


「瀬野。いや瀬野君、事実だからってなんでもかんでも言っていいわけじゃないんだよ」


「なんだよ」


「とりあえず図書委員長。私の敬愛する青山放置あおやまほうち先生の小説がいつ返却されるのか調べてほしい。ここ数日の間ずっと貸し出し中で、もういい加減禁断症状が出そうだ」


「それはまあ調べるけど……。禁断症状だって?」


「もう限界なんだよ。任せた」


 私は瀬野に図書委員の業務を押し付け、会話を強引に千切ることとした。

 瀬野がお尋ね本について調べてくれている間、私は図書室内に目を向けた。

 幸いにも、そこに木原さんの姿はないようだった。そう思っていた。


「桂木君、これはまた奇遇ね」


 なぜか木原さんの声が天から響いてきた――――気がしたが、なんてことはない。実際には背後から声を掛けられていた。


 おそらく私は同時多発的に冷や汗をかいていたかもしれないが、とりあえずは声の出どころに振り返ってみるしかなった。


 すると、図書室の入り口に噂の才女・木原さんが立っていた。


「妖怪みたいだ。……あ、ごめん。妖怪みたいなタイミングで出てきたって言いたかった」


「それはフォローなの? 誰が妖怪よ」


「……で、あまり来ないって言ってたはずの木原さんが、どうしてまた今日も図書室に」


「瀬野君に渡し忘れた本があったから、もういっそ自分で返しにきたの」


 そう言って、木原さんは私の敬愛する青山放置先生の本を提示してみせた。リンゴにナイフが突き立てられている、どこか意味ありげな表紙の本である。


「え、木原さんて、青山放置作品読むんだ」

「読むけど……何?」

「あ、いや。なんでもありません」


 今更だが、青山放置というのは、私の敬愛している数少ない作家のうちの一人である。

 十年ほど前に大きな文学賞を受賞し、当時はメディアを賑わす時の人となっていたと記憶しているが、それも栄枯盛衰、今では新刊を出しても低空飛行を続けているような作家だ。


 小説の内容は主に男女のアダルトな性愛を描くものが多く、これを木原さんが読んでいるとなると……いや、これ以上は彼女の沽券に関わりそうなので控えておく。

 木原さん本人も、そんな本を見せつけておきながら毅然とされているし。



「ああ、木原さん! どうしたの! どうしたの!」


 私が木原さんと話していると、業務を終えたのか、瀬野が声をあげて私の前に割り込んできた。


 図書室は静かに利用してください。という図書委員お手製のかわいいポスターが壁に貼られているが、今はそれも見なかったことにしたほうが良いのだろうか。

 というか瀬野、大きい声も出せたのか。


「あ、瀬野君。あなたに渡し忘れていたんだけど、私、まだ他にも返さないといけない本があったみたいなの。だから返しにきたのよ」


「なんだぁ……。それなら、明日でもよかったのに」


「え? でも返却期限、今日までよね?」


「期限なら俺がなんとかするし、一日くらい大丈夫だよ。えへっ」


 へらへらと笑う瀬野に対し、木原さんはどこか不服げな様子だった。

 彼女はドが付くほどの真面目なのだ。

 自分に得のある話であっても、生粋の真面目はそれでさえ正してしまいたくなるものである。


 瀬野は木原さんの性格をあまり理解できていないのかもしれない。


「ダメよ、そんなの。他の生徒が守っているルールを、私だけ反故ほごにするなんて……」


 言わんこっちゃない。木原さんは眉根を寄せ、眼鏡越しに困り顔である。


「そうだぞ瀬野。私も木原さんの言う通りだと思う」


「ぐお。……というか桂木には関係ないだろ? 俺と木原さんの話なんだし」


「いや大いに関係ある。今日ここで木原さんが青山作品を返却してくれるなら、私もすぐにその本を借りることができる。つまり、明日わざわざ図書室に足を運ぶ必要がなくなるんだ。一日分労力を使わなくて済むならそれはメリットだろう」


「そんなに読みたいならもう書店で買えばいいのに……」と、瀬野が何か小声で言っていたようだけれど、それ以上彼が声を発することはなかった。


 結局、吹奏楽部の部活動があるからと、木原さんは手早く青山放置の本を図書室に返却した。


 私もその姿をそばで見届けていたが、最後の最後まで、瀬野は不満たらたらの顔であった。


 なぜだろう。

 図書委員としては、返却期限を守る行動に不満なんてないはずなのに。


 瀬野君、よくわからない男である。


 ちなみに木原さんが返却してくれた青山放置の小説は、私がありがたく借りることとした。



 ◇


 明くる日の朝、授業前からすでに木原さんは消しカスを練りに入っていた。

 消しカス練り職人に労働規則という概念はないようである。


 まだ寝起きの頭もうつらうつらとして仕方ないこの時間帯に、才女の木原さんは一心不乱である。


 見上げた集中力。彼女が才女たるゆえんを私はそこに見た気がした。


 隣に桂木(※私)がいても、木原さんは延々そのほっそりとした指先で消しカス達を巧みにこねくり回しているようであった。


 ここで話しかけるのは職人の気を散らす愚行の一手。


 そう感じていたため、私は木原さんが消しカスを練り上げている間、極力邪魔にならないよう背景に溶け込んでおこうと思っていた。


 ただし、木原さんはそう思っていなかったようで。


「桂木君」

「ひゃい」


 作業中の木原さんに声を掛けられた私は、一瞬だけ声の出し方を忘れていた。


「ねぇ、桂木君。この子に名前をつけたいのだけど、何がいいかしら?」


 そう言う木原さんの机の上には、いつの間にかミニチュアの雪だるまならぬ『消しカスだるま』が屹立きつりつしていた。


 私は、むむむと口を閉じる。

 これは非常に難問である。


 出来栄えはその筋においてずいぶん上等なものとお見受けするが、所詮は消しゴムのカスを寄せ集めた存在。


 こんなものに名前を付けたこともなければ、私にはそういう趣味もない。


 しかしだからといって、名前なんていらない。と木原さんの意欲作を突き放してしまうのもなんだか忍びない。


 才女である木原さんのことだ。きっと凡人たる私をはじめ、うちのクラス連中には到底思いつかぬような特別で絶対的な理由があるのやもしれない。


 一体何を考えているのかわからないが、そう易々と否定するべきではなかろう。


 そうした苦難の末。


「……消しカス……消し……。という名前はどうだろう」


「ケッシー?」


「消しカスの集合体だからケッシー」


 ……。


 木原さんが珍しく固まっている。

 私は自分で言っておきながら、まあまあ死にたくなった。


「……」


 私達の沈黙はそこから一分ほど続いた。

 私にはその一分が、十分にも二十分にも感じられた。

 長引けが長引くほど、ここが生き地獄かと思った。


「ごめん、却下。やっぱり却下でいいよ。もっと別の名前にしよう」


「いえ、その名前にしましょう」


「なんと」


 木原さんの言葉に耳を疑った。

 安直すぎる私のネーミングが、まさか採用されてしまうとは!


 彼女は机の隅に追いやっていた消しカスの集合体を、大切そうに真ん中まで移動させてみせる。


 それから、まごころを込めた様子で……


「これからよろしくね、ケッシー」


 才女とは、ひょっとしたら勉強以外まるでアホなのかもしれない。

 私は非常に申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになった。


『ケッシー』はなかった。


 センスの欠片もない上に、まごころを込めて呼ぶ名前ではないと思う。


「ふふっ。案外、呼んでみるものね。愛着が湧きそうよ。ケッシー♪」


 ああ、ああ木原さん。

 何度も名前を呼ばないでほしい。


 呼ぶたびに、私は古傷が抉られているような、はたまた黒歴史を公衆の面前で解説されているような、とんでもない居たたまれなさに襲われる。


「名前、彫ってあげなきゃね」

「そ、それは名案だ!」


 全然そんなことは思っていなかったが、もうこうなれば最後まで押し通そう。


 木原さんも、おそらくそれが犬や猫の名前にも劣るくだらないものだと本音では思っていても、私の手前、精一杯自分を納得させようとしてくれている。頼んでもないのに。


「いい名前……よね。いい名前よ」

「あ、うん。いいよね」


 私がハシゴを掛けてしまった以上、木原さんが登りきるまで外してはいけない。

 凡人・桂木。才女にふさわしい男になれ。


「けぇー……っ、いー……」


「え、ローマ字だと?」


 まさかのローマ字表記は聞いていない。


 木原さんは、私の付けたそのくだらない(※くだらなくなんてない)名前を、ローマ字で彫ろうとしていた。


 私はてっきりカタカナで彫られるものと思っていたが、これはとんだ早とちりであった。


 木原さんは、シャープペンの先端をぶすりと差し込み、その集合体のぶよぶよとした胴体にローマ字を刻んでいく。


 K・E・C・C・Y


 尚更センスの爆発した五文字がしっかりと消しカスに刻まれた。


 やはり才女。私の思考など、とうに置き去りにされていたらしい。

 一体なぜローマ字なのだ。

 もはや木原さんの背中が私には見えない。


「この子は日本人じゃないでしょ。だから英語表記がベターよ」


「なるほど」


「これで海外にも目を向けていけるわ」


「確かに(?)」


 全然納得などいっていなかったが、とりあえず私は納得のポーズを決めておいた。


 木原さんが日本人である以上、ケッシーだって日本生まれ日本育ちではないのだろうか。などと無粋な質問が脳裏をよぎったが、これは私が常識に囚われてしまっていたからだ。もっと柔軟になれ、私。


「今は国際化の時代だもの。……桂木君、知ってる? 世界の人々は大体四人に一人が英語を話すんだそうよ?」


「それはすごい。日本の高齢者の割合と良い勝負だ」


「そういうこと♪」


 まったくもってどういうことか判然としなかったが、なにやら木原さんがご機嫌だったのでヨシとしておこう。知識をひけらかしてご機嫌になるのは、才女なりの可愛げというものだ。


 彼女が懸命にシャープペンで名前を彫っている間、気が付くと数学の授業が始まろうとしていた。

 奇しくも今日は『確率と割合』の授業だったはずである。


 私は、木原さんが、この授業でいきなり英語話者の国際的な割合を話し出さないかと冷や冷やしていたが、才女とは常にワンランク上を行っているもの。

 結果的に、彼女はそつなく普段通り授業を受けてくれていた。


 私と話している時だけ、少しばかり例外なのか。

 才女とは気まぐれ屋なのだろう。


 私はそう思うことにしている。


 真偽は定かではない。


(了)


※あとがき

 こちらは短編ですので、以上で終了となります。

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 お読みいただきまして、ありがとうございました!

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消しカスを練る才女のお気持ち、わかるはずもなく。 つきのはい @satoshi10261

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