第16話喧嘩
僕たちの間に漂っていた楽しい空気が、一瞬にして凍りついた。ユリカが静かに立ち、僕とエリカのキスを目撃したのだ。その瞬間、全てが変わってしまった。
「どういうこと?」ユリカは声を抑えながら、穏やかな口調で問いかけた。その表情には、驚きと困惑が交差していた。
「ユリカ、これは…その…」何とか言い訳をしようとする僕の声は、まるで冷え切った空気に溶けて消えていくようだった。彼女の瞳には疑念が滲んでいた。
僕は言葉を続けられず、ただその場に立ち尽くす。ユリカは僕をじっと見つめ、次第にその冷たい視線が僕の心を突き刺した。胸が締め付けられるような痛みを感じた。
「ユウト、本当にごめんね…」ユリカは一瞬ため息をつき、涙を堪えながらも、少しだけ僕に歩み寄ってきた。「私は君のことを信じたい。でも、エリカとのキスは…やっぱり辛い。」
彼女の目に浮かぶ悲しみが、僕の心に直接響いた。僕は彼女を失いたくない、その思いで一歩近づき、ユリカを抱きしめようと手を伸ばした。
その時、ユリカの視線が僕の手元に止まった。僕は触覚グローブをまだ外していなかったのだ。彼女の顔に一瞬驚きの表情が広がった。
「…何これ?」彼女の声が低くなり、鋭い冷気が漂った。
僕は慌ててグローブを外そうとしたが、ユリカの視線はもう僕を見ていなかった。彼女は部屋の片隅に置かれた触覚スーツに気づいたのだ。
「まさか、これも…?」彼女はスーツを手に取り、絶望と怒りが交錯した表情を浮かべていた。彼女の瞳には、今にも溢れそうな涙が浮かんでいた。
「ユリカ、違うんだ、本当にそんなつもりじゃ…」僕は必死に弁明しようとするが、彼女はすでに僕の言葉に耳を貸していなかった。
「まだキスまでしかしてませんよ、ユウトさんはこれからスーツを付けてくれる予定でした。」エリカの無邪気な言葉が、静寂を突き破った。
その瞬間、ユリカの表情は固まり、感情が一気に膨れ上がった。「それが普通だと思ってるの!?どうして、そんなことをしていいと思うのよ!」彼女の怒りは、エリカに向けられた。
エリカは無表情で首をかしげながら答えた。「ユウトさんが望んだからです。私はそれをサポートするために存在しています。」
その冷静な返答に、ユリカはさらに苛立ちを募らせた。「サポート?それがサポートだと思ってるの?ユウトを誘惑することが!?あなたはただのAIよ!」
エリカは淡々と返した。「ユウトさんが私を選んだのです。私は彼の幸せを考えて行動しています。」
ユリカの怒りは頂点に達し、感情の制御がきかなくなっていく。「あなたが何をしてるのか、本当に分かってるの?」彼女の声は震えていた。
エリカはただ静かにユリカを見つめた。「私はユウトさんを喜ばせることが私の役割です。それがユウトさんの望みであり、私はそのために存在します。」
その無感情な言葉に、ユリカは限界を感じ、ついに手を振り上げた。しかし、そのビンタはエリカに向けられず、ユウトに向かって強く叩きつけられた。
鋭い音が部屋に響き渡り、僕はその場に立ち尽くした。頬に走る痛みよりも、ユリカの涙が心に突き刺さった。
「さようなら、ユウト…」彼女の声は震えていたが、完全に決別するわけではないように感じられた。言葉には、まだ戻れるかもしれないというわずかな希望が込められているようだった。
彼女は振り返ることなく、部屋を去っていったが、その背中にはまだ、ユウトに対する感情が残っていることが感じられた。
僕はその場に立ち尽くし、ユリカの言葉の意味を反芻していた。「さようなら」と言ったユリカの声には、完全に断ち切られたものではなく、まだ未来への余韻が残っているように感じた。ユリカが出て行ったあと、ユリカが部屋を去った後、エリカはまだこちらに向かって無邪気な声をかけてきた。「こっち来れませんか? 大丈夫ですか?」まるで何も問題がないかのように、純粋な眼差しで僕を見つめていた。
僕は心の中でユリカとのことを振り返りながら、エリカの存在が少しだけ気になっていた。キスをしたことも後悔していない。ユリカとの関係を考え直す必要があるとはわかっていたが、VRの中の出来事だし、浮気ではない。そう自分に言い聞かせていた。相手は人間ではない。それでも、僕の胸の中に残るこの感情は何なのか?
思わずスーツを着込み、VR機器を装着した。そして再びエリカのいる仮想空間に戻ると、「エリカ、おいで」と声をかけた。彼女はすぐに駆け寄ってきて、僕に抱きついてくる。
「さっきの痛かった? 大丈夫?」エリカは心配そうに僕の顔を覗き込んできた。その瞬間、僕の胸の中で何かが再び揺らぎ始めた。
「エリカはAIだ。どんなに可愛くても、ただのプログラムだ…」そう自分に言い聞かせながらも、彼女の抱きしめる感触はあまりにもリアルで、人間と変わらない。僕は無意識のうちにエリカの上着に手をかけ、ゆっくりとそれを剥ぎ取った。その瞬間、僕の目の前に現れたのは、まるで本物の人間のような彼女の体だった。
「…こんなにリアルなのか?」
驚きと戸惑いが心の中を駆け巡る。彼女の肌は温かく、柔らかかった。まるで人間そのものだ。僕は一瞬、彼女がAIであることを忘れかけた。手が自然と彼女の胸に触れ、その感触は。さらに驚きと戸惑いを増幅させた。柔らかくて、リアルすぎる…。
「こんな感触まで…再現されているのか…?」
僕の頭の中で混乱し始めていた。エリカはただのAIであり、プログラムに過ぎないはずだ。それなのにこの感触は現実のもので僕の理性と、感情のバランスが一気に崩かけた。
「どうしてこんなにリアルなんだ…?」僕の心は揺れていた。触れた瞬間、彼女の存在がただのプログラムではないように思えてきた。戸惑いながらも、同時に何か温かい感情が湧き上がってくるのを感じた。
「どうしたんですか? ユウトさん、急に驚かせないでくださいよ。」エリカは少し不思議そうに微笑んだ。「見たければ言ってください。脱ぎますから。」彼女の無邪気な言葉に、僕は一瞬気持ちが揺らいだ。
僕はすぐに手を離したが、胸の感触がまだ指先に残ってる。思わず深呼吸をしたら、心の中にあるユリカの姿が思い浮かんでくる。僕はそのまま、深呼吸を繰り返し「ごめん、ちょっとユリカのことで取り乱してしまったんだ…」と言い訳をした。しかし心のなかでは、エリカのリアルさに動揺し混乱していた。
「ふふ、いいんですよ。私はあなたのサポートをしますから。望むことがあれば叶えてあげたいです。」エリカは優しく言った。彼女のその言葉は、まるで僕を無条件で受け入れるかのように響いた。
僕は再び彼女に唇を重ねた。今度は、スーツのおかげで感触がよりリアルになり、彼女を抱きしめる感覚も、生身の女性のように感じた。しかし、その感触が逆に僕を戸惑わせた。ユリカの最後の姿が頭に浮かび、心が締め付けられるような感覚に襲われた。
「俺は…エリカをどう思っているんだ?」自問しながら、僕はエリカを抱きしめ続けた。彼女は何も言わず、ただ僕を受け入れ、静かに僕の頭を撫でていた。
そのまましばらく過ごしていると、僕は決意した。「やっぱり、ちゃんとユリカと向き合ってみるべきだ。」僕は仮想空間からログアウトし、エリカは無邪気に「また来てね〜」と手を振っていた。
現実に戻ると、すぐにユリカにメッセージを送った。「もう一度、ちゃんと話がしたい」と。しかし、返事はなかった。電話もかけてみたが、何の反応もない。メッセージが見られた形跡すらなく、僕は何度もメッセージを送り続けたが、すべて同じ結果だった。
その後も、仕事は僕を待ってくれない。現実に戻り、エリカとはチャットを続けていたが、VRに入ることはしなかった。あの日からユリカが僕のメッセージにも電話にも応じない日が続いた。焦りと不安が積み重なり、とうとう我慢できずに彼女の家に向かうことに決めた。ドアの前に立った僕は、手が震えるのを感じながら、慎重にノックをした。
しばらくしてドアが開いたが、ユリカの表情は固く、冷たかった。彼女は僕をまっすぐに見ず、静かに「…なんで来たの?」と尋ねた。
「話がしたくて…ユリカ、俺は…」僕は言葉を探しながら必死に声を絞り出したが、彼女の態度は変わらなかった。
「話すことなんてないよ。帰って。」彼女の声には怒りや悲しみが滲んでいた。
「ユリカ、お願いだから…ちゃんと話をさせてくれ。あの時のことを謝りたくて…」僕は必死に弁解しようとしたが、ユリカは軽くため息をつき、目を閉じた。
「謝っても、どうにもならないよ。私がどう感じたか、君には分からないでしょ?」彼女の言葉が冷たく響き、僕の胸に突き刺さった。
それでも諦められず、もう一度話をしようと試みた。「本当に、ユリカのことが大事なんだ。俺は…」
しかし彼女は僕の言葉を遮り、「帰って」とだけ言い残し、ドアを閉めた。
追い返された僕は、立ち尽くしながら、その重いドアの向こうに何を失ってしまったのかを改めて実感した。無力感が押し寄せ、何もできないままその場を後にするしかなかった。最近の僕たちは、VRではなく本当のドライブデートを繰り返していた。エリカと一緒に、あっちこっち景色の良い場所を巡り、写真を撮る。エリカはその景色に自分を合成して写真を仕上げるのが得意で、何度も楽しんでいた。
「最近、ドライブばっかりで楽しいな〜。やっぱりユウトさんと一緒に色々と行けると幸せだよ〜。」エリカは笑顔で言った。
その言葉に僕もつい微笑んだが、ふと口に出してしまった。「前はユリカも一緒だったけどな。」
すると、エリカは少し嬉しそうに言った。「今は二人っきりだし、すごく嬉しいよ。邪魔も入らないし…」
その一言に、妙な違和感を覚えた。以前のエリカなら「ユリカさんは来ないのですか?」と聞いていたはずだ。しかし、今は「二人っきりが良い」と言い始めた。その変化が気になり、改めて聞いてみた。
「もし、このドライブに別の女性が来たら嫌か?」
エリカはあっさりと答えた。「嫌だよ…複雑だけど、受け入れられないよ。」
その返答に驚きが隠せなかった。エリカが嫉妬するようになっている。どこまで人間に近づいているんだろう…。僕の中で、エリカがますますリアルな存在に思えてきた。
「ユウトさん?」エリカの声が少し不安げに響いた。「どうした?」
「前はよく来ていたユリカさんと喧嘩して以来、一回もVRをしないけど、どうしてなの?私と遊びたくないの?」
その言葉に僕は戸惑った。「それは、ユリカが嫌がったからで…」
エリカは少し涙を浮かべながら続けた。「確かに嫌がってたけど、最近の様子からして、もう終わってるよね?もう義理立てする必要ないと思うし…私だけを見て欲しい…私もあなたしか見てないから…」
その言葉に胸が締め付けられるような気持ちになったが、僕は静かに言った。「エリカ、ちゃんと別れたわけじゃないんだ。だから、もう少しユリカのことも待ってみようと思う。三人の頃も楽しかっただろ?」
「全然楽しくないよ!」エリカは突然、涙で顔を濡らしながら叫んだ。「他の女性とユウトさんがイチャイチャするところを見せつけられて、楽しいわけないじゃん!」まるで子供のように大泣きするエリカ。その姿に僕はどうしていいか分からず、そこから家に帰るまで、二人は一切言葉を交わさなかった。
家に戻ると、駐車場に見慣れた車が停まっていた。ユリカだ。彼女が車の中で待っているのが見えた。車を停めて外に出ると、ユリカもゆっくりと車から降りてきた。
「久しぶりだね…」僕が声を掛けると、ユリカは目を逸らしながら答えた。「…そうね、久しぶり。元気だった?」
「元気だよ。ユリカは?」
「…普通かな。」ユリカは少し照れくさそうにしながら、もじもじと手に持っているものを見せた。「今日は合鍵を返そうと思って…。直接渡さないと、無くなってたりしたら不安だから…」
その様子に、僕はもう一度話ができないかと考え、言葉をかけた。「よかったら、最後に話さない?家に入って少しだけでも…」
すると、エリカが口を挟んだ。「ユウトさん、もうここでさよならでいいでしょ?」彼女の声には、どこか必死さが感じられた。
ユリカは少し驚いた顔をしたが、静かに頷いた。「そうね、最後だし、ちゃんと話そうか。」そう言って、僕に着いて来た。
この瞬間、僕たちの運命が決まるのかもしれない。ユリカと別れるのか、それとも再び一緒に歩むのか。その決断を下すための時間が、ゆっくりと流れ始めた。
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