第36話 どちらの花の露が好みですか?
再び花の露を手に取った皆さんは、それぞれに感嘆の声を上げた。
「これは柚子ですね。お雪はこちらが好きにございます!」
「なんとも
「エルダーフラワーという名の花を使っています。他に、カモミール、クマザサ、赤爪草を合わせました」
「エウロパの花にございますか」
「爽やかで若々しい香りにございますね。気持ちが若返ります」
なるほどと頷いている志乃さんの横で、お銀様がふふっと微笑んでいた。確かに、柚子の方が若い人向けな気はするわね。
「こちらは、役者や殿方も喜びそうですね」
「甲乙つけがたいです」
「あなたはどちらが好き?」
女中さん達も、こちらが良いあちらが良いと楽しそうに話をしている。好みで分かれるとは薄々思っていたけど、やはり片方に絞るのは難しいのかもしれない。
「お蘭様、どちらもとても良い品でございます!」
「どちらと決めるのは難しいですね。殿方のご意見も聞いてみてはいかがでしょうか」
そう言った先生は、通訳をしてくれている春之信さんに視線を向けた。
すると、まさか意見を求められるとは思っていなかったのだろう春之信さんは、ぎょっとして、私がですかと言いよどんだ。
「巷では殿方も花の露を買い求めておりますよ」
「しかし、私では化粧の良し
「では、お兄様は
「また難しいことを……」
言葉を詰まらせた春之信さんは、私を見た。
お雪ちゃんと先生の会話を全て聞き取れた訳じゃないけど、たぶん、春之信さんはどちらが良いかと聞かれたのだろう。
確か、恒和では化粧をする男性も多いと聞いたことがある。役者の方も買うことを考えたら、男性の意見というのも必要だったわね。
「どうでしょうか、春之信さん」
「そうですね……男が使うと考えましたら、爽やかな柚子の香りが良いと思います。ですが──」
そこで言葉を切った彼は、私をじっと見つめる。
何か、好みに合わない香りでも混ざっていたのだろうか。心配になって、少し身を乗り出した私が「ですが?」と聞き返すと、彼は目を細めて微笑んだ。
「薬師殿に合うのは、こちらの茉莉花ですね。とても華やかで、よろしいかと思います」
流れるように告げられた言葉は、私の思考を停止させた。
部屋がしんっと静まり返る。
頬がじわじわと熱くなっていくのが分かり、私の頭の中は真っ白になった。
だって、まさか私に似合うって基準で意見をされるなんて思っていなかったもの。これは、どう切り返すのが正解なのだろうか。
返事に困っていると、お雪ちゃんが首を傾げた。
「……お兄様、何と言ったのですか? エウロパの言葉では分かりませぬ!」
「男が使うなら爽やかな柚子の香りだが、薬師殿に合うのは茉莉花でしょうと」
再びさらりと言ってのける春之信さんの言葉を聞いたお雪ちゃんは、一瞬きょとんとする。お銀さんと志乃さん、それに女中さん達も動きを止めた。
ここにいる全員が、春之信さんの真意が分からずにいた。
だって、真面目一辺倒な春之信さんだもの。そう言った浮いたことを言うなんて誰も思わないじゃない。
いや、真面目一辺倒だからこそ、彼にはそういった甘い意図はないのだろう。純粋に、私に合うのを考えてくれたと考える方が自然だ。自然だけど……考えを巡らせる私の胸を締め付けるに十分な言葉だった。
「あ、あの……恒和の方に売るものですから、私では参考にならないかと」
あわあわとしながら返事をすると、春之信さんは茉莉花の瓶を手に取った。そして、それを私の手に乗せる。
「もし
好いたという言葉に、どきんと鼓動が跳ねる。
待て、私の心臓。勘違いをしているんじゃない。
春之信さんは
困惑しながらエミリーを振り返ると、目を細めて笑っている姿が目に写った。今にも黄色い声を上げそうな顔だ。
「お兄様、今度は何を言われたのですか?」
「好いた相手に贈るなら、あちらだと言ったのだ」
一瞬の静けさの後、その場にいた全員が声を揃えて、
皆で驚いているということは、やっぱり、彼の言葉が意味深に聞こえるってことよね。
でも、真面目一辺倒な春之信さんよ。そうよ、アドバイスをしてくれただけ……よね?
ただただ困ってしまった私は「ご意見ありがとうございます」と返すのが精いっぱいだった。
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