最終話 おきゃんな私を、これからもよろしくお願いします

 春が訪れた。

 風は少し冷たいけど、温かな陽射しの中で草木が芽吹き、藤倉の庭も可愛らしい花が咲き始める。

 春之信さんが、一本の庭木の前で立ち止まった。甘く優しい香りが漂ってくる。


「マグノリア殿の花もそろそろ咲きそうですね」

「私の花?」


 ふと見上げると、そこには白木蘭マグノリアが蕾をつけていた。そういうことかと分かると自然と口許が緩んだ。

 春之信さんと顔を見合って笑う。


「今思えば、私がマグノリア殿に惹かれたのは、あの木の下だったのでしょう」

「……あの木の下?」

「木に登る女子おなごに会ったのは、初めてでした」


 春之信さんの言葉で、リンデンの木に登って足を滑らせた日を思い出した。

 という言葉を初めて知った日でもある。そうだ、弥吉さんにそう言われて、その後、春之信さんも何度となく私を、おきゃんだと言っていた。


「……淑女の方が良かったですか? リンデンの下で本を読むような」


 恥ずかしい姿しか見せていないような気がして、もじもじしながら問えば、春之信さんはゆっくりと首を横に振った。

 

「それはそれで絵になりそうですが。おきゃんだからこそ、目が離せなかったのです」

「……それって、恋心とは違いますよね?」

「そうですしょうか?」

「そうです。何だか、放っておけない子どもを見守っていたように聞こえます」

「近いものはありますね」

「ほら、恋というより保護欲ですよ」


 ちょっと拗ねて唇を尖らせると、春之信さんは驚いたように目を見開く。


「保護欲と言われたら、そうかもしれません。ですが……」


 私の頬に触れた春之信さんの指は、いつも変わらない温もりを伝えてくれる。そうして──


「行く水に数書くよりも儚きは思はぬ人を思ふなり」


 いつぞやの和歌を口ずさんで、切なそうに微笑んだ。


「あの……不勉強で恥ずかしいのですが、その意味が私には分からないんです」

「行く水とは、川を意味します」

「川?」


 さらさらと流れ行く川を思い浮かべる。そこに文字なんて書けないわ。

 壱、弐、参……きっと、書きながらもその文字は崩れてします。書けたとしても、それは流されてしまう。なんて虚しいのだろう。──はっとした。

 春之信さんを見上げると、彼は少し気恥ずかしそうな顔をしていた。


「……おきゃんな貴女を見守るうちに、私の中で保護欲が情欲に変わりました。客人の貴女に情欲を抱くなどあってはいけないと、己を諫めもしました。その時、ふと思ったのです」


 いつもより、饒舌に語る春之信さんの指が熱い。


「貴女は私のことなど何とも思っていないだろう。そう思うと、この気持ちは虚しく儚いものだ……そして、行き場のない思いを和歌でお伝えしました。貴女が和歌を読めないと分かりつつ」

「……直接言ってくれたら良かったのに」

「それは少々、格好がつかないかと」

「そうですか?」

「貴女が思いを寄せてくれるとは、微塵も思っていませんでしたから。しかし、今思うと女々しい和歌ですね」


 苦笑を浮かべる春之信さんは、私の頬に寄せた手を引っ込めようとした。それを遮るように、私は手を重ねる。


「ふふっ。確かに、春之信さんの印象とは少し違いますね。でも、そんな一面もあるって知ることが出来て、嬉しいです」


 黒曜石のような瞳が輝いた。

 わずかに眉を下げた春之信さんは「敵いませんね」と呟く。


「貴女は、どんな私でも受け入れるのですか?」

「そうかもしれません。だって……春之信さんも、おきゃんな私を受け入れてくれたでしょ?」

「マグノリア殿……これからも、貴女の全てを見せてくださいますか?」

「ふふっ、私、隠し事が苦手なんで、覚悟してくださいね」


 ふざけて答えると、春之信さんはふっと笑って「それは楽しみだ」と言いながら、もう片方の頬にも手を添えてきた。

 熱い手が頬を包み込み、私の顔をそっと上へと向ける。

 少し上がった視線の先に、幸せに満ちた春之信さんの笑顔があった。


「これからも、よろしくお願いします」

「はい。これからも……お慕いしています」


 綺麗な微笑みが近づいてくる。

 あまりの近さに恥ずかしくなって、思わず瞼を下ろすと、柔らかくて熱い思いがそっと唇に触れた。

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夢を叶えるため、武士の国へと逃げさせていただきます! 日埜和なこ @hinowasanchi

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