第52話 惑わす香りは一時の幻

 涙が込み上げた。でも、ここで泣いたりしてもどうにもならない。

 ぎゅっと瞼を閉じた時だった。ふと、香道の志乃先生の言葉を思い出した。


『薬師様。惑わす香りは一時の幻にございます。お心を強くお持ちなされよ』


 心を強く。

 繰り返し思い出す。


「眠ってしまわれましたか?」


 耳に届いた声は、春之信さんなんかじゃない。知らない男だ。

 ぴくりと指先が動いた。

 金縛りが解けていることに気付き、どうしたらこの場を切り抜けられるか、瞬間的に考えた。

 今、目を開けては駄目。だって、男の気配が凄い近いもの。


 ぎしりとベッドの軋む音がした。これ以上近づけさせてなるものか。


「良い夢を」


 すぐ側で男が囁いた。

 この場を切り抜ける手は一つ。もしかしたら他にあったかもしれないけど、今は、これしか思いつかなかった。

 春之信さん、力を貸して。──私は髪をまとめていた簪を引き抜いた。


「ごめんなさい!」


 一応、謝っておくわ。でも、手加減なんてしないで、私は手にした簪を男に突き立てた。


「ぐああぁっ! 何をっ──!!」


 指先に嫌な感触が伝わり、男は声を掠れさせるほどの絶叫を上げた。


 目を開けると、片目を手で覆た男が床で蹲っていた。その指の間からは、赤い雫が落ちて床を汚している。男が立ち上がろうとよろめいた瞬間、私はありったけの魔力で光の壁を展開した。

 眩い壁は、守りの壁。だけど、これは私を守る物じゃない。


 壁は、男を四方八方から囲んだ。そう、守りの壁を使って彼を閉じ込めたのだ。


「こんなことをして、ただで済むと思っているのか!」

「ごめんなさいって謝ったわ。それに、私はヘドリック・スタンリーの元になんて行きません!」

「くくっ……残念だが、船はもう出航している」

「泳いででも、栄海に戻るわ!」


 足枷の鍵を外そうと、掌を翳したその時だった。

 船が大きく傾いだ。


 おかしい。外は青空が広がっている。時化ている訳でもないのに、どうしてこんなに揺れるのかしら。

 疑問に感じたその時だった。部屋のドアが激しく叩かれた。

 男の口角が上がる。


「ここにいるのは、私の仲間だということを忘れないでいただこう」


 どうせお前に逃げ場はない。そう言うように男は肩を揺らして笑い声をあげた。


「だったら、窓から海に飛び込むわよ!」


 今度こそ、足枷に手を翳して開錠アンロックの魔法を唱え、自由になった私は窓に走り寄った。

 背後でドアが煩く叩かれる。まるで蹴り破ろうとしているような音だ。

 急がないと、捕まってしまう。

 焦りながら指を滑らせ、やっとの思いで窓の鍵を外した時だった。ドアがバリバリと音を立てた。そうして──


「薬師殿!」


 聞き覚えのある声が、私を呼んだ。

 そんな。だって、彼がここにいる訳がないのに。


 窓が開き、冷たい海風が入り込んだ。甘い香りが全て吹き飛ばされる。

 振り返ると、何人もの武士が雪崩れ込むように入ってきた。その中に、春之信さんもいて、彼は真っ先に私のところへと走ってきた。

 

「……春之信、さん。どうして……ここ、海の上、ですよ」


 大きな手が私の手首を掴んだ。温かい手に引かれ、ああ、彼の手だと安心する。温かい胸から漂う香りは仄かに甘く優しい。あの熟した果物のようなものとは違う、絶対に。

 この人は、本物だ。──指から力が抜け、血に汚れた簪が床に転げ落ちた。


「助けに来るのが遅くなり、申し訳ありません」

 

 背中に両手が回され、そっと撫でられる。

 安堵感で胸が苦しくなり、堪えていた涙が頬を伝った。


「春之信さん……春之信さん……」


 彼の背中に両手を回してしがみ付いた私は、その名を呼ぶことしか出来なかった。

 まるで駄々っ子のように泣いて彼の名を呼び続ける私を、春之信さんは嫌がらずに、ずっと髪を撫で続けてくれ、そうして、


「大丈夫ですよ。マグノリア殿」


 私の名をはっきりと呼んでくれた。

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