第51話 甘い香りと魔術師の男
男はにいっと笑った。
こいつがヘドリック・スタンリーの手先だということに、間違いはないだろう。私を連れて行くということは、ヘドリック・スタンリーは栄海藩にはいないということだろうか。だったらどこに……
再び船がガタンと揺れ、大きな波の音が聞こえてきた。
「どこに向かっているの?」
きっと私の顔は青ざめているだろう。それを見ている男は、愉快だと言わんばかりの笑顔だ。
「主のところですよ。早々にお連れしろと煩いので、予定を変更しました」
「……どういう、こと?」
「いえね。まさか、主が国外追放になるとは思わないじゃないですか。自主的に国へ帰るよう仕向ける予定だったんですよ。貴女の邪魔をして信用を失わせ、早期に国へと戻す。そうして傷ついた貴女を主が迎える。白馬の王子作戦です」
なかなかでしょうと言うように、人差し指を立てて男は説明する。
「私はどんな邪魔をされたって、貴方の主に尻尾を振ったりしないわ」
「ええ。その様ですね。国に帰す必要もなくなりましたし、直接お連れすることにしました。
赤い目が私を見た。それはまるで蛇の目ように妖しく光り、私を捕らえる。
まるで金縛りにあったよに体は硬直し、警報を鳴らすように激しい耳鳴りが私を襲った。
このままじゃダメだ。何とかしないと。何とか。
しかし、どういうわけか指一本、視線一つ動かせない。魔法の発動だって確認できなかったのに、私が出来るのは、ただ口を動かすことだけだ。
「……どうやって、私をここに連れてきたの?」
「おや、そんなことを聞いてどうするのですか? 時間稼ぎをしても、誰も来やしませんよ」
「単なる好奇心よ。魔力が少ない薬師だけど、私は魔術師でもあるのよ。未知のものに出会えば知りたくなるわ」
「こんな状況に追いやられても好奇心を抱くとは! 探求心がお強いのは素晴らしいですね。こんな形でお会いせなければ、よき同僚となれたかもしれません」
「同僚……貴方、薬師なの?」
「ええ、そうですよ。もう五年ほど恒和で暮らしています。ですから、主からの急な依頼には困りました」
主の悪い癖ですよねと言ってため息をつく男が、ほんの少し視線を逸らした。その瞬間、指がぴくりと動いた。だが、すぐに彼は私に視線を戻す。すると、再び動けなくなる。どんな仕掛けか分からないけど、視線で人を拘束できる幻惑系の魔法が発動しているようだ。
何とかして、彼の視界を遮ることが出来れば、まだ逃げるチャンスは生まれるということか。
逃げる糸口を見つけようとしていると、彼のまとう甘い香りがむわっと強くなった。
「貴女にかまけていたら、研究が疎かになりますからね。かといって、スタンリー家に逆らっては、支援を受けられない」
「ヘドリック・スタンリーは、追放されたのよ」
「ええ、知ってますよ。だから、命令を聞く義務はなかったのですが……藤倉の書を見て、気が変わりました」
瞬き一つしない男が、不気味に口角を吊り上げた。
「……どういうこと?」
「私の研究の一つが、奇跡の花でしてね。藤倉家の書物は実に興味深い」
「やっぱり、貴方が藤倉様の日誌を!」
「ええ。そこで、藤倉家の文庫への侵入を試みたのですが、屋敷に入るのは簡単だというのに、そこの警備だけはやたら厳重でしてね」
春之信さんがいっていた。
藤倉家にはエウロパとの交易に係る書類や、栄海藩の歴史に関わる書物も多くあるって。お金の貸付目録やら、様々な権利に関わるもの、それに春之信さんが関わっている翻訳の書物とか、とにかく重要なものが収められてるんだって。一つでも紛失したら大問題だろうし、警備が厳重なのも頷ける。
「なので、貴女の護衛に人手を回してもらおうと思ったんですよ。そうすれば文庫は手薄になるかと思ってね」
「……だから、霊孤泉で襲ったのね」
「そういうことです。ですが、一向にあなたの護衛が増える様子はない。部屋に籠って藤倉春之信が側を離れなくなっただけです。誤算でした」
「残念だったわね。所詮、私はただの薬師よ。私よりも、文庫の方が重要に決まってるじゃない」
「そうでしょうか。貴女は大名に認められる特別なものを創り出した。それが失われたとあれば、なかなか問題だと思いますよ」
「……何が言いたいの?」
「今頃、藤倉家は大騒ぎで貴女を探しているでしょう。文庫の警備も手薄になるかもしれません」
「何をバカなことを!」
「駄目だった時は、次の手を考えるまでですよ。貴女を主に届ければ、時間は出来ますからね」
にたりと笑った男は、私に顔を近づけて唇に触れてきた。その冷たい指先に背筋が凍る。
「気安く触らないで!」
「おや、嫌われてしまったようですね。仲良くストックリーについて語れると思ったのですが」
手を退けた男はやれやれと肩をすかす。
甘い匂いが私を包み込む。直感的に、これ以上香りを吸い込んじゃダメだと分かっていても、指一本動かせない私は唇を噛むことしか出来なかった。
「おや。お喋りはおしまいですか。それとも、この香りに酔ってしまいましたか?」
男の大きな手が私の肩を掴む。そうして、抗うことの出来ない私を抱え上げた。
体は静かに、簡素なベッドへと下ろされる。
「あの日の夜と同じく、良い夢を見ながら航海をお楽しみください」
「……夢?」
目の前が霞み、頭が重くなっていく。
この香りが原因だと分かっているのに、私には、どうすることも出来ないと言うのか。
「ええ。ほら……今、貴女の前にいるのは、誰でしょうかね」
静かな声が「薬師殿」と私を呼んだ。
蘇るのは、春之信さんの声だ。
そんな筈はない。ここに、彼がいる訳はない。
「心配はいりません。私がお守りします」
優しい声音にほっと吐息を零す。瞼が重くなる。
そうだ。いつだって春之信さんはそう言ってくれた。ずっと私の側にいてくれて、いつも力になってくれた。彼がいなかったら、私は前に進めなかったかもしれない。
心細さに、気持ちが揺らぐ。側にいて欲しい。春之信さんに会いたい。
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