第50話 目が覚めるとそこは、海の上だった

 ◆


 波の音が聞こえる。

 押しては引く優しい波ではなくて……そう、船が波しぶきを立てて進行する時の音だわ。ざざん、ざざんって打ち付けるような。

 ここはどこだろうか。

 痛む頭を抱えて体を起こそうとした私は、手が動かせないことに気付いた。両手は後ろ手に縛られ、動かそうとすれば手首に荒縄が擦れる。


「ここは……」

 

 瞬きを繰り返して辺りを見渡す。

 簡素な部屋だけど、小さな窓とテーブルセット、それにベッドがある。私はそのベッドに寝かされていた。

 何とか身体を捻って起こし、ベッドを降りてみたけど、それ以上は動けそうになかった。ご丁寧に足にも枷がかけられていて、チェーンの先はベッドに繋がっている。

 ベッドの足を粉砕すれば外せるけど、私をこんなところに繋ぎ止めている相手が分からない状態で、下手に動くのは得策じゃないわよね。


 チェーンの長さは絶妙で、窓に手がかけられるかどうかのところまでしか行けない。だけど、外を見ることは出来た。

 その先に広がるのは、青い空と海だった。いくつもの船が行きかう様子も伺える。


 ざざんっと水音が響き、わずかな揺れを体に感じる。

 

「……この船、動いてるの?」


 焦りを感じ、嫌な汗が背中を伝い落ちた。

 だって、待ってよ。私はさっきまでお屋敷にいたのよ。藤倉様と話をしていて、それで──ズキズキと痛む頭で記憶を呼び起こし、ハッとする。そうだ。赤い霧が現れたんだ。甘い果実の熟したような匂いがして、それから、春之信さんが逃げるようにって。


「春之信さん……春之信さん!」


 振り返るも、そこには誰もいない。

 そもそも、彼がこんな仕打ちをするはずもない。と言うことは、気を失った後に何かあったんだわ。

 嫌な予感に体が震え、ごくりと喉が鳴った。


「……逃げなきゃ」


 状況はさっぱり分からない。私をここに閉じ込めるものが誰かも、見当すらつかない。だけど、ここにいてはいけないと、本能的で悟った。

 まずは、手の拘束を何とかしないと。

 無駄に魔力を使いたくないけど、仕方がない。

 

 手首に意識を集中し、魔力を集める。

 小さくていい。ほんの少しの火で焼き切れば良い。火力を間違えて、無駄に魔力を消費する訳にはいかない。

 

「私なら、出来る……フランマ!」


 手首が熱くなり、焦げ臭いにおいが立ち上がる。それと同時に手首へ力を込めた。そのまま縄を引き千切るようにすれば、火の力で弱くなったそれは、床にぼとりと落ちた。

 次はこの枷だ。これを外せば──足首に手を翳した時だった。


「何をしているのですか?」


 冷たい声が私に向けられた。

 顔を上げると、いつの間に部屋に入ってきたのか、黒装束の男が立っていた。赤い目が私をぎろりと見る。


「火を使いましたか……魔力が少ないと聞いていたので侮っていましたね」


 男は床でジジッと音を立てる縄を見ると、火種となっていたそれを踏みつけた。それから再びこちらを見て、私にゆっくりと近づいてくる。

 逃げ場なんてない。だけど、この男と距離をつめるのは危険だ。

 男から視線を逸らさず、後ずさる。


「……春之信さんをどこにやったの?」

「おや。ご自身の心配ではなく、男の心配ですか」

「誤魔化さないで」

「その様なつもりはありませんよ。そもそも、ここに藤倉春之信を招いた覚えはないので、どこにやったのかと聞かれても、答えようがありませんが」


 言っている意味が分からなかった。だって、春之信さんが私を連れ出そうとしたのよ。

 困惑に顔をしかめていると、背中が壁に当たった。もう、逃げ場はない。

 

 男の顔が眼前に迫り、甘い香りが漂ってきた。この香りを、私は知っている。あの赤い霧、それに商館で藤倉様の日誌が奪われた時の香りだ。

 つまり、この男が犯人──春之信さんと似ても似つかない姿の男を前に、えも言えぬ恐怖心を感じた。あの時、どうして彼と見間違えたのだろう。それもこれも、全てこの甘い香りのせいなのだろうが。

 息を飲み、唇を噛むと男はにたりと笑った。


「大人しくしていれば、酷いことはしません」

「……どういうこと?」

「主が貴女の帰りを待っているので、お連れするだけです」

「主……」

「ご存じのはずですよ」

 

 ヘドリック・スタンリーの顔が脳裏に浮かんだ。

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