第41話 霊狐泉の清らかな湧き水

 一休みした後、ゆるい上り坂の先に石段が見えてきた。その前には赤い鳥居があり、さらに先までいくつもの鳥居が続いている。まるでトンネルのようだ。

 春之信さんは立ち止まり、鳥居の前で頭を下げた。それにならって私も頭を下げる。


「この先には何があるのですか?」

「先ほど参拝した神社の本殿です」

「ほんでん?」

「お祀りする神様のおられるところです」


 つまり、聖堂みたいなものかしら。

 そうですかと頷き返した私は、不思議な鳥居のトンネルを進んだ先で、再び感嘆の声を上げた。そこにあった小さな建物の周りに、いくつもの狐の置物があったのだ。もしかして、これが本殿なのかしら。


 春之信さんについて行き、見よう見まねでお詣りを終えると、私はきょろきょろと辺りを見回した。

 木々の中にひっそりと建っている小さな建物の他は、目立った建造物は見られない。てっきり、豪勢な聖堂でも建っているのかと思っていたけど、そうではないようだ。


「薬師殿、こちらですよ」


 声をかけられ、慌てて春之信さんを追う。


「先ほどのが、本殿ですか?」

「そうです」

「人が入れるような建物には見えませんでした」

「本殿は神がおわす処ですから、人が立ち入ることは出来ません」

「そういうものですか」

「はい。なので、人が参拝するための拝殿を大きく建てたのです」


 春之信さんは、少し大きな岩の上にひょいと登り、こちらを振り返った。その向こうに何があるのかと好奇心に駆られた私は、すぐ傍に寄って彼を見上げる。すると、大きな手が差し出された。

 岩に登るのを手伝ってくれるようだ。

 へこんでいる箇所に足をかけ、彼の手に指をそっと乗せた直後だ。力強く引き上げられたことでバランスを崩した私は、思わず彼に縋りつくような体勢となってしまった。


 心臓が跳ねた。

 恥ずかしさに慌て、春之信さんから離れようとしたのだけど、彼は当然のように私を受け止める。すると、彼の胸元から仄かな甘い香りが漂ってきた。


「滑りやすいので、お気を付けください」

 

 優しい声音がすぐ真上から降ってきて、私の鼓動はさらに加速する。

 はいとしか返事が出来ず、背中を支えてくれる手を意識してしまった。早鐘を打つ鼓動が、薄いシャツを通して彼に伝わってしまいそうで、どうしたら良いか分からずに立ち竦んでしまった。すると、春之信さんは「ご覧ください」といって木々の合間を指差した。


 木々の隙間から少し離れたところに見えるのは、先ほど立ち寄った神社と賑わう参道だ。小さい人影が動いているのもよく見える。

 

「とても素敵な眺めですね。神様も、こうして木々の隙間から覗いているのかしら」

「どうでしょうね」

「でも、神様はこの山にいるんですよね? 覗き見ないと、参拝客のお願いは聞けませんよ」

「神とは人ならざるものです。さて、目で見て耳で聞いておられるのか」


 くすっと笑った春之信さんは、ちょっとだけ木の枝を上げた。すると、青い空がよく見え、清々しい気持ちになる。


 こんなに素敵な景色だもの。神様だってたまには見ているんじゃないかしら。エウロパの神様にだって目や耳はあるし──あれ、でも私が見たことあるのは絵画や彫刻だわ。本当の神様に会ったことなんて、勿論ない。

 あの絵姿が本当に神様の姿だって、誰が証明できるのかしら。でも、もしも耳や目がなかったら、神様ってどうやって人々の願いを聞いてくださるのかしら。


 今まで考えもしなかった。神様に目や耳はあるのか問題に直面した私が小さく唸ると、春之信さんはまたふふっと笑った。

 私、そんな可笑しな顔をしていたのかしら。

 恥ずかしくなって顔を逸らすと、春之信さんは私から手を放して岩を降りた。

 

「神が覗いているかは分かりませんが、狐たちは木々の間から覗いているかもしれませんよ」 

「……狐?」


 大きな手が、再び差し伸べられる。

 おずおずとその手を取った私は岩から飛び降りると、ちょうど本殿が視界に飛び込んできた。その周辺にはいくつもの狐の置物がある。

 

「この山におわす神の使いは、狐だといわれています」

「神様の使い……では、あの狐の置物にも何か意味があるのですか?」

「あれは祈願者が奉納したものです。神の使いに願いを託すのです」

「そういう意味があったんですね。面白い風習だわ」

「さて、水源はすぐそこです。参りましょう」

 

 彼に手を引かれ、さらに奥へと進めば、木々の合間に大きな岩の洞が見えてきた。

 清らかな風が吹き抜け、頬を撫ぜた。


 洞に近づくと、そこはそれほど深くないことが分かった。人一人がやっと入れる程度で、奥には小さなほこらと狐の置物がある。岩壁からは絶え間なく水が流れ出ていた。


「こちらが、ここら一帯を潤す水源の一つ霊狐泉れいこせんです」

「これが……」

 

 持ってきたガラス瓶にとった清らかな水からは、まるで魔力のような力が感じられた。

 光にかざした水が、パチパチと輝いている。これで化粧水を作ったら、間違いなく最高のものが出来る。そう確信すると、自然と口元に笑みが浮かび上がった。

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