第33話 甘い梔子の香り

 提灯の灯りで足元を照らしながら庭を歩いていると、ふんわりと甘い香りが漂ってきた。ジャスミンにも似ているけど、濃厚で熟した果物のようにねっとりとしている。どこかで、かいだことがある気がするけど、さてどこだったか。


「春之信さん、この香りは?」

梔子くちなしですね」

「くちなし?」


 聞き返すと、彼の指が前方を指し示した。そこにある低木は子どもの背丈くらいで、白い花がぽつぽつと咲いている。地面に花びらが落ちているし、時期はそろそろ終わりなのかもしれない。


「満開の時は、もっと香りが強いですよ」

「そうなんですね。エウロパに持ち帰ったら、喜ばれそうです」

「エウロパにはないのですか?」

「ないですね。似た花でジャスミンならありますが」

「じゃす……?」

「こちらでは、マツリカと呼ばれています」

茉莉花まつりかですか。なるほど、似ています」


 頷いた春之信さんは、クチナシの花をそっと撫でると、私はこちらの方が好きですがと呟いた。

 揺れる花びらから、ふわりと芳香が立ち上がる。

 やっぱり、かいだだことがあるような気がする。春之信さんの香袋……違うわ。あれよりもっと濃い匂いよ。


「……あ」

「薬師殿、どうなされた」

「梔子に似た香りを思い出しました!」

「茉莉花の話ですか?」


 首を傾げる春之信さんを見て思い出した。

 盗人ぬすっとを春之信さんだと思い込んだあの夜、私の部屋に漂ってきた甘い香りと似ているんだ。

 もしかしたら、あの香りが何か分かれば、盗人を見つけ出すことが出来るんじゃないかしら。


「……春之信さん、あの、私の話を聞いてもらえますか?」


 私は神妙な面持ちで尋ねていたかも知らない。

 口元を引き結んだ春之信さんと視線が合う。彼は黙って静かに頷いた。


「藤倉様の日誌が盗まれた夜、甘い香りがしました。それで目を覚ました私は……貴方に会ったんです」


 解せない。そう言いたげな春之信さんの目が細められ、綺麗な眉が少しつり上がった。

 ゆらりと風が吹き抜けて、甘い香りが鼻腔をくすぐる。それを深く吸い込み、すごく似ているけどこれとも違うと確信する。


「梔子の香りにとても似ていました。くらくらするくらい熟れた香りです」

「……薬師殿は、私が盗んだと?」

「いいえ、違います。春之信さんがあの時間に商館を訪れるのは無理です。だから、私は夢を見ていたのだと思っていました」

「夢……」

「夢と現実が混ざってしまっていた。だから、武士の姿を見て春之信さんと錯覚したのだと思います」


 ふと自分の指を見る。

 あの時、私は夢の中で春之信さんの指に触れた。それはとても冷たくて、彼の温かい指とは全く違うものだ。きっと、盗人の指が冷たかったのよ。どんなに幻を見せられたって、触れるものが変わるわけじゃないんだ。

 今ならはっきりと言える、盗人は春之信さんじゃない。


「あの香りが何か分かれば、盗人を捕まえられるかも。でも……」


 薬やお茶に使う植物の香りは、だいたい覚えている。でも全てじゃない。そもそも、恒和にしかない花の香りだったら、私には絶対分からないわ。梔子の花が、そうだったように。


「私の知らない香りでした。恒和国のものかもしれません」

「なるほど。そのことも香道の先生に尋ねてみましょう。何か分かるかもしれません」

「よろしくお願いします」

「私が出来ることであれば、善処いたします」


 そういった春之信さんは、私に手を差し伸べた。


「薬師殿、お手を。足元がぬかるんでいますゆえ、お気をつけて」


 温かい手に引かれ、提灯と月明かりに照らされた暗がりを進んだ。

 薄暗い夜道だというのに、握られた手の温かさのおかげで、私はちっとも不安を感じていなかった。

 大きな手を握って「ありがとうございます」といえば、春之信さんは応えるようにして、少し握る手の力を強くした。

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