第32話 池に映る月も美しいものです
しばらくして日が沈むと、春之信さんが部屋を尋ねてきた。文机の上でハーブを広げて調合していたため、部屋はみっともない散らかり具合だ。
「お忙しかったですか?」
「すみません、散らかっていて」
「いいえ。私こそ急に訪ねて申し訳ありません」
頭を下げた春之信さんは、失礼といって部屋に入ってきた。
すぐ側に腰を下ろすと、朝方に相談した試作品の件を、お銀様に相談してきたと報告してくれた。
「三日後、香道の先生が参られるので、お力添えを願ってはどうかと申しておりました」
「……こうどう?」
初めて聞いた単語に首を傾げた。
はいと頷いた春之信さんは、懐に手を差し込むと小さな袋を取り出した。そうして私の手を取り、そっとそれを置く。
「これは?」
「香袋です。何の香りか分かりますか?」
香袋とは、サシェのようなものかしら。
小さな袋に鼻を近づけて嗅いでみるけど、甘い香りがふわりと立ち上がった。ジャスミンにも似ているわね。でも、いくつもの香りが混ざっていて、はっきりとは分からない。
「優しく甘い香りで落ち着きます。でも、これが何かは分かりません」
「これとは形が異なりますが、同じように香りを
「香りを当てる?」
「はい。武家の嗜みです。先生はお雪のところに指導へ参られます」
「……その先生なら、流行りの香りにも詳しいかもしれませんね。ぜひ、会わせてください!」
「では、三日後に」
頷いた春之信さんへ、お礼をいいながら香袋を返すと、彼はついと外を見た。
「今夜は月も綺麗ですし、少し、庭を歩きませぬか?」
散歩に誘われ、どきりとしながら、すぐさま私は心の中で首を傾げた。
どきりっと何よ。ただの散歩に心を揺さぶられるとか、私、どうしちゃったのかしら。
「……何か、御用がおありでしたか?」
「いいえ! 丁度、綺麗な月だなと思っていました」
「池に映る月も美しいものです。ぜひお見せしたい」
「ありがとうございます。それじゃ……」
ぜひにと笑って頷くと、春之信さんは安堵するようにほっと息をついて静かに立ち上がった。
それを追いかけるように私も立ち上がる。だけど、慌てたのが失敗だった。
爪先を畳に引っかけ、身体が傾いだ。咄嗟に片足を大きく踏み出し、バランスを保って踏ん張ることで、何とか耐えることが出来た。ドレスや振袖だったら、派手にこけただろうけど。
転ばずには済んでよかったと、ほっとしたのも束の間。視界に見慣れぬ指が映っていることに気付き、ハッとした。
そうだ、春之信さんがいたんだ。
顔を上げるとそこで、手を伸ばしたような姿勢の彼が硬直している。
あ、もしかしなくとも、これは危ないと思って手を差し伸べてくれたということだろうか。
「えっと、あの……ありがとう、ございま、す?」
なんとも間が悪い気もするけど、一応、お礼を口にすると、ややあって春之信さんが噴き出して笑った。
「すみません……いや、しかし……薬師殿は、本当に
堪えきれない笑いをくつくつと零す春之信さんを見て、私は呆然とした。
彼も、笑うんだ。いや、ほんの少し微笑む姿は何度も見たことあるけど。ただ、こうして声を上げるように笑った顔を見るのは初めてだったから、笑われたと言うのに彼の表情に見とれてしまった。
「そのように足を開かれる
「……いいえ。母に見られたら、間違いなく怒られます」
「異国でも、女子には
「どこの国も、女性は生きにくいものです」
「生きにくさですか」
ふうっと息をついた春之信さんは、何か言いかけたけど、参りましょうかと言って歩き出した。
しずしずと歩く背中を追いかけ、私は外に出た。
初夏と言えど、日が傾くと涼やかな風は少し肌寒く感じる。空気もしっとりとしていた。
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