第三章 盗人騒動と新たな生活
第25話 突然の来訪者と胸騒ぎ
甘い香りがする。エミリーがお茶の用意をしているのかしら。でもこの香り、ハーブティーとは少し違うわ。この香りはどこから来るのか。──ぼんやりする意識の中、思い出そうとしてもなかなか上手くいかない。
香りの先を探るように思い頭を上げた時、誰かが私を呼んだ。
「薬師殿、どうなされた?」
ハッとして声のする方を見れば、煌々と灯る明かりの下に人影があった。武士のようだけど、彼はもしかして──
「……春之信、さん?」
「お疲れのご様子ですね」
私はどうやら、自室のテーブルに突っ伏して眠っていたようだ。
ズキズキと痛む重たい頭を支え、心配そうに私を見詰める彼に、どうしてと尋ねた。
どうして私の部屋に彼がいるのか。違和感と共に投げ掛けた疑問に、彼は少しばかり顔を強張らせた。
「会う約束をお忘れですか?」
「約束?」
春之信さんの言葉を反芻し、ぼんやりとした頭で考える。
そういえば、リンデンの花を摘んでいた時に、読めなかった文字を教えてもらう約束をしたわ。あれ……それはもう教わったような。でも、そういえば他にも約束をしたような気もする。何だったかしら。
上手く回らない頭で考えていると、春之信さんが私を呼んだ。
「薬師殿、書物はどちらですか?」
「え、書物?……引き出しの中です」
「あまり時間もありません」
「時間……そうですね。時間を取らせてしまいますよね。お待ちください」
春之信さんにだって仕事はあるだろうし、わざわざ来てもらったのだから、お待たせするのも悪いわよね。
それにしても、頭が重たいわ。仕事に追われる日が続いていたから、疲れがたまっていたのかしら。
机の前に立って短く息を吐く。そこに手を翳すと、引き出しに花の刻印が浮かんだ。
「
静かに告げれば、小さな音がカチリと響き、花の刻印は霧散した。
「今のは……」
「魔法です。恒和にはないのですか?」
「薬師殿が、魔法で鍵を……」
「はい。私以外だと、基本的には開けられない仕様です」
「基本的には?」
「えぇ。私よりも魔力……魔法を使う力が強い者が、無理やり開けることも出来ますが、基本的には私の力に反応します」
私の説明に納得がいったのか、なるほどと呟いた春之信さんは机の引き出しを見ていた。
「ずいぶんと厳重ですね」
「貴重な日誌を盗まれでもしたら、大変ですから」
「盗まれる……」
「春之信さんはこの日誌の凄さが分からないのですか? もしも、ライバルたちにこれが渡りでもしたら」
「ライバル……敵ということですか?」
「え、あ、いいえ。その……ストックリーが恒和に持ち帰れなかったものに、奇跡の花があるんです」
「奇跡の花……」
「それを探し求める者にとって藤倉様の日誌は、貴重な情報になると思います」
取り出した藤倉様の日誌を春之信さんに差し出し、私はそれにと話を続けた。
「藤倉様の大切な思い出に、何かあっては申し訳ないですから」
「……そうですね」
日誌を受け取った春之信さんの指が、私の指先に触れた。ひやりとした指に驚き、私はとっさに手を引っ込める。
何だろう。何かがおかしい。
彼の低く心地よい声が「薬師殿」と私を呼ぶ。
おずおずと顔を上げれば、そこに切れ長の瞳を細めた春之信さんがいた。薄い唇が、ゆっくりと弧を描く。
綺麗な微笑みに吸い込まれるようにして、言葉を失った私は目を逸らせずに黙った。
春之信さんの手が動き、衣擦れの音と共に小袖が揺れる。すると、熟れた甘い香りが鼻腔をくすぐった。
伸びてきた指が頬にふれる。
ひやりとした感触で、彼との距離がひどく近いと気付く。ハッとした私は、慌てて背を向けた。
「お、お茶を淹れないと……エミリー、エミリー!」
そうよ。お客様がいらっしゃっているのに、お茶の一杯も出さないのは失礼よね。
慌てて探したエミリーの姿はどこにもなかった。
来客の時、彼女が案内してくれるはずなのに、どうしていないのか。
部屋の隣にある控室に通じるドアを開けるが、そこは真っ暗だった。
何だろう。さっきから感じる、この違和感は。
胸騒ぎに背筋が震える。
壁にあるスイッチへと指を伸ばすと、壁にかかる魔法灯が煌々と部屋を照らし出した。
すぐ目についたワゴンにはお茶の用意などない。ティーセットを探すと、それらは棚に整然と並んでいた。
「いない……」
外にいるのかしら。
来客時に私を一人にするのはあり得ないのだけど、もしかしたらハーブを摘みにいったか、何か急な用が出来たのか。
春之信さんであれば、私に危害を加えるなんてないと思ったのかもしれないし。だとしても、私に声をかけないなんてことがあるかしら。
「どこに行ったの、エミリー……」
あれこれ可能性を考えながら首を傾げ、ふと窓を振り返った私は、あり得ないものを目にして、動きを止めた。
ほんの数秒、息をするのも忘れるくらいの衝撃だったが、弾かれるように窓に駆け寄った私は、小窓の枠に手をつく。
「……月が出てる」
そう、窓の外にあったのは、冷ややかに輝く月と満天の星。そんなバカなと思い、窓を押し上げて外に顔を出してみるけど、そこに広がっているは間違いなく闇夜だ。
考えてみれば、私はさっき部屋の明かりを灯したじゃない。なのに、私は今が昼間だと勘違いしていた。
どうして、今が昼だと思っていたの?
夏だというのに、ひやりとした風が頬を撫ぜた。
混乱したまま茫然としていると、ガタンッと隣の部屋から物音がした。
どういうことか。
春之信さんが夜にこの商館を尋ねるなんて不可能だ。関所は夜には閉じてしまうもの。だから、私は昼間と勘違いした?
待って。そうすると閉ざされたドアの向こうにいるのは、誰なの?
どうして、藤倉様の日誌のことを──ハッとして、私は扉に走り寄った。
だけど、時すでに遅し。
藤倉様の日誌と共に、誰とも分からぬ来訪者の姿は消えていた。
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