第25話 勢いに任せて握った手は温かかった

 しばらく庭を歩いていると、ざわめいていた心は落ち着きを取り戻した。


 初めてお屋敷を訪れた時も思ったけど、この庭は洗練されていて、とても美しい。

 整えられた小道を進みながら、横眼に見る池のほとりにはカキツバタが揺れていた。その側では、小柄な鴨が静かに泳いでいて、ごつごつとした大きな石の上では亀が甲羅干しをしている。

 整えられた庭園を眺めていると、自然の中に身を置いているような気になるから不思議だ。


 庭にある大きな池にかかる橋が目についた。それを指差し、春之信さんを呼び止めた。

 

「春之信さん、あの橋を渡ることは出来ますか?」

「橋?……出来ますが、少し遠いですよ。慣れぬ履物では大変かと」

「大丈夫です!」

「では、参りましょうか」


 少し目を見開いた後、彼はおかしそうに笑う。

 もしかして、おきゃんだなって、また思われたのかしら。そうだとしたら、少し気恥ずかしい。でも、好奇心には抗えないのよね。


 小股で進みながら庭木を眺めつつ、草花を楽しみながら池にかかる橋を目指した。


 途中、見知らぬ人とすれ違った。春之信さんに頭を下げる彼らは、横を歩く私を物珍しげに見ていく。それはそうよね。こんな赤毛の女が、派手な振袖を着ていたら目立つに決まっているわ。


「今の方たちは、お屋敷で働かれてる方ですか?」

「いいえ。庭を見に来た町民でしょう」

「庭を見に来た?」

「はい。町民であれば、ここの散策が可能です。花見や紅葉狩りなど、季節の催しもしています」

「もみじ狩り?」


 聞き覚えのない単語に首を傾げると、春之信さんは足を止め、青々とした木々を指差した。池にまで張り出た木の葉がさらさらと風に揺れ、何とも心地よい音を奏でている。


「本来は山の紅葉を楽しむことを意味し、山に行くことを狩りに見立てたといわれてます」

「では、ここの木々も赤く染まるんですね?」

「はい。一面が赤くなります」

「池に映ったら綺麗でしょうね」


 あの小さな葉が一つ一つ赤く染まるのを想像しただけで、胸がときめいた。この美しく整えられた庭が姿を変えるところを、ぜひ見たいものだわ。


「四季の移り変わりを楽しめるこの庭は、お祖父様の自慢でもあります」

「藤倉様の?」

「はい。ストックリーもよく訪れたそうです」

「ストックリー!?」

「ええ。お祖父様の案内をいつも楽しみにしていたと、日誌にも書いてありました」

「日誌にも……ますます、続きを読むのが楽しみになりました」


 恒和の植物を調べる傍ら、読んでいる藤倉様の日誌は本当に素敵だ。恒和の言葉を学ぶこともできるし、さらに、ストックリーが訪れた当時を感じることまでできるんだもの。

 頬を緩ませていると、春之信さんが少し目を細めた。


「貴女は本当に、ストックリーがお好きなんですね」

「恒和国を知ったのも、植物が好きになったのも、ストックリーのおかげですから」

「そうですか……私も同じです」

「春之信さんも?」

「私は、お祖父様から伝え聞いてエウロパに興味をもちました。……また、日誌の写しをお届けしましょう」

「ありがとうございます!」


 まさか、二人の共通点がストックリーだったなんて。その事実を嬉しく思い、さらに日誌が読めると知った喜びで感情が昂ってしまった。

 気付けば、私は無意識に春之信さんの手を両手で握りしめていた。


 切れ長の黒い瞳が見開かれ、彼は返答に困った顔をしている。

 ああ、また勢い任せにやってしまったようだ。


 春之信さんの白い頬が僅かに色づいているように見えた。もしかして、照れているのかしら。そう気付いた途端、握りしめた手がすごく暖かくなった。

 とてつもない恥ずかしさが込み上げてくる。


 枝葉の揺れるさわさわとした音が、僅かな沈黙と不安を煽るように落ちてきた。


「あ、あの……秋のお庭も、案内してくださいますか?」

「……私で良ければ」

「ありがとうございます。楽しみにしています」


 脳裏に赤く染まる庭を思い描きながら、私は手を離して自分の頬に触れた。そこはとても熱くて、たぶん、まだ見ぬ秋の風景に負けないくらい赤くなっていたと思う。


「薬師殿は、不思議な人だ」

「えっ、なんて──」


 言葉を聞き取れずに問い返したその時だった。

 チチチッ──小鳥が鳴き、茂みがガサガサと物音を立てた。それを振り返ると同時に、春之信さんの大きな手が私を引っ張っりよせた。

 突然のことに驚き、顔を上げる。


「──っ!?」


 何をと問おうとした私が目にしたのは、研ぎ澄まされた刃物ような瞳だった。

 ぞっと背筋が震えた。

 春之信さんは、自身の背に私を庇うようにして息をひそめ、茂みを見据えていた。彼の大きな手が、腰に挿している刀へと添えられているのを見て、何か異常が起きているのだと私は察した。


 張り詰めた空気に、彼の名を呼ぶことすら出来なかった。


 息を飲むことすら躊躇われるほどの緊張が、春之信さんの背中から伝わってくる。そうして、どれほどの時間が過ぎたのか。

 武骨な指が刀から離れ、彼の口からふうっと短い息が零れた。


「……春之信さん、あの、何が……」

「物陰から、妙な視線を感じました」

「視線?」

「いや。気のせいだったようです。参りましょう」


 そう言って、何事もなかったように歩き出した春之信さんだったけど、彼が踏みしめていた地面には、力強い足跡がくっきりと残っている。そこにはまだ、緊張感が残っているようだった。


 春之信さんが睨んでいた茂みの方をふと見た私は、少し離れたところから「薬師殿」と呼ばれ、すぐさま背を向けた。

 この時、茂みに魔法感知を施していれば良かったと、後々、後悔することになるだなんて思いもしなかった。

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