第16話 おきゃんと呼ばれても困ります

 中庭に出た私は、思わずため息を零してしまった。

 大きなリンデンの木には、乳白色の小花がわっさりと広がっている。木の下に立てば蜂蜜のような甘い芳香が漂ってくるし、初夏を迎えるこの時期は風邪も穏やかで心地いい。木陰でお茶を飲んだり本を読んだら穏やかな気持ちになるだろう。


 だけど、収穫をされた様子が全くない。これじゃ、ため息もつきたくなるわ。


 脚立きゃたつを木にかけ、足場がぐらつかないか確認をする。そうして、籠の持ち手を腕にかけた私は軽い足取りでそれを登った。

 お母様が見たら卒倒するだろう。でも、ランドルフ侯爵家でも薬草園の手入れを手伝っていたし、こうして木に登るのは慣れたものだったりする。

 

 丁寧に花芽を摘んで、枝にかけた籠へと入れる。そう繰り返して作業を進め、どれくらい過ぎたか。


 少し離れたところから私を呼ぶ声がした。

 振り返ると、中庭の入り口にエミリーの姿があった。よく見ると、彼女の後ろには見知った武士の姿が二つ。


「あれは弥吉さん? と……春之信さん」


 いつぞや軟膏が欲しいといって現れた武士、弥吉さんはご機嫌そうだ。あのときの困り顔とは打って変わった様子ね。それと、彼の後ろからついてくる春之信さんは、いつもと変わらない静かな表情だ。


 木ノ上から見ていると、春之信さんがこちらに気付いた。目が合うと、彼は切れ長の目を少し見開く。

 もしかしなくても、私が木に上っているのを驚いているのかしら。女が木に登っている姿をみたら驚くのは、どの国も同じなのね。


「マグノリア様、お客様ですよ!」

「ぷれんてす殿! 以前はお世話になり申した」


 木に近づいてきた弥吉さんは少し驚いた顔をした後、そういって頭を下げた。


「ちょっと待っていてください。降ります」


 脚立きゃたつの上から話しかけるのは失礼だろう。いそいそと地面に降りようとした私が、木の枝にかけていた籠に指を伸ばしたその時だった。

 脚立が、ぐらりと傾いだ。


 まずい、倒れる。──咄嗟に手を伸ばして枝を掴んだ直後だ。脚立が激しい音を立てるのと、エミリーが悲鳴を上げて私を呼ぶ声が響き渡った。


「マグノリア様! お怪我はございませんか!?」

「だ、大丈夫よ」


 私は木にしがみ付き、枝に足をかけた何ともみっともない格好で落下を免れることが出来た。

 ほっと安堵して見た先に、顔面蒼白なエミリーと弥吉さんがいる。春之信さんはどこかしらと思っていると、すぐ横でガタガタと音がして、脚立が建て直された。その足元は、春之信さんがしっかりと押さえている。


「降りられますか?」

「ありがとうございます。あの……少し待ってください」


 木の枝に引っかけた籠の方を見やり、手を伸ばす。だけど、さっき手を伸ばした時に指先で弾いてしまったのか、籠はほんの少し遠ざかっていた。ひっくり返って摘んだ花が無駄にならなかったのは良かったけど、さてどうしようかしら。


 何度やっても、ほんのちょっと指が届かず、虚しく空を掴むばかりだ。もう少し頑張れば、届きそうなんだけど。


 指先をプルプル震わせながら伸ばしていると、私の体はぐんっとと後ろに引き戻された。

 肩が、とんっと何かにぶつかった。

 何事かと驚いて視線を動かせば、私の腰に見慣れぬ男の腕があることに気付く。さらに視線を上げると、そこに綺麗な春之信さんの顔があった。

 あまりの近さに、何とも言えない恥ずかしさが胸をざわめかせた。


「あれを取れば良いのですか?」


 春之信さんが静かに問い、武骨な指が指し示す籠を私は見やる。はいと頷けば、小袖に隠れた逞しい腕がちらりと見え、小さな籠はいとも容易く回収された。


「無茶をされる方だ」

「……すみません。助かりました」

「先に降りてください」


 籠を受け取った私は、促されるまま、脚立を降りた。


「マグノリア様、無茶をされないでください!」


 地面に足を下ろすと、泣き出しそうな顔のエミリーがしがみ付いてきた。その横では、脚立を抑えていた弥吉さんが私の顔を見て安堵の息をつく。


「ぷれんてす殿は、なかなかのですな」

「……おきゃん?」

「活発で、男のような娘ということです。無茶は、ほどほどになされよ」

 

 脚立を降りてきた春之信さんが、ため息交じり教えてくれた。

 これはつまり、褒められていない……むしろ貶されていると受け止めるべきだろうか。

 別に、女として見て欲しいとか思っている訳ではないけど、複雑な思いが込み上げてくる。

 

「ご心配をおかけしました。あの、ところで、お二人は私に用があったのでは?」


 こほんっと咳払いをして尋ねると、春之信さんが弥吉さんを見た。


「この者が、薬師殿に礼を申したいと」

「……礼?」

「はい。そのついでに日誌の写しを、もう一冊お持ちしました」

「藤倉様の日誌!?」


 春之信さんが着物の合わせ目に挿していたものを取り出す。丁寧に紐で綴じられた書物だ。それを受け取った私は、さっそく捲った。そこには、春之信さんの綺麗な文字が綴られていた。


 私はすっかり、日誌に夢中になっていた。

 期待で胸をときめかせ、視線はすっかり手の中だったから、この時、私は春之信さんの表情の変化に気付けなかった。

 彼が目を少し細め、微笑むように私を見ていたなんて、全くね。

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