第二章 商館勤めも楽じゃない

第15話 エミリーはロマンス小説がお好き?

 藤倉様とお会いしてから一ヵ月が過ぎた。

 お屋敷に通ったおかげで、少しずつ春之信さんとも会話が出来るようになり、ここ最近はとても充実している。


 寡黙だと思ったいた春之信さんだけど、話しかければちゃんと答えてくれるし、恒和の言葉を教えてくれる時は親切丁寧だ。さらに、私がエウロパの共通語を教える時は凄い熱心で、会話も驚くほど弾んだ。


 二人で話しているとあっという間に時間が過ぎる。だから、会える日を待ち遠しく思ってはいる。


 でもそこに、貴族令嬢の間で流行る劇的なときめきは微塵もないような気がする。彼の静かな声に耳を傾けたり、無駄のない所作を見ているのは心地が良くてほっとする。揺さぶられようではないけど、不思議な安堵感だ。

 この感情は何なのだろう。


 思い出すと胸が少し苦しくなる。今朝も、それを振り払うようにして、私はドレッサーの前で書物──春之信さんが写し書きをしてくれた藤倉様の古い日誌を捲った。


 几帳面さが伝わる丁寧な文字を指でなぞりながら読んでいると、難しい言葉が出てきた。後で質問しようと思いい、ペンで印をつけながらほくそ笑んでいると、エミリーが声をかけてきた。


「マグノリア様、何をにやにやしているのですか?」

「え? にやにやなんてしてないわよ」

「していました! 藤倉のお屋敷で、何か美味しいものでも頂いたんですか?」

「何を言ってるのよ。私は調べ事をしに行ってるのよ」

「本当ですか? すっごく幸せそうな顔を……あ! もしかして、素敵な殿方と出逢われたとか?」


 ブラシを片手に鏡を覗き込むエミリーは、目を輝かせた。

 素敵な殿方という言葉に反応し、脳裏に春之信さんを思い浮かべた。でも、エミリーが想像する素敵っていうのと違うような気がするな。


 彼女の想像している殿方像は、本国で流行る恋愛小説に出てくる王子様だと思うのよね。キラキラと輝いて、鮮やかな薔薇が似合うような。でも春之信さんは、そういうのじゃなくて、真面目一辺倒で堅実な学者って感じよね。


「あ、図星ですね。どんな方ですか?」

「そうじゃなくて……エミリーが期待するような話じゃないわよ」

「それは、聞いてみないと分かりません! というか、紹介してくださらないんですか?」

「紹介って……」


 エミリーだって一度会っているし、それがパッと思い出せないってことは、やっぱり彼女の想像している出逢いではないのだろう。

 苦笑して、機会があればねと話を濁した時だった。扉がノックされ、どうぞと促せば職場の薬師が顔を出した。


「マグノリアさん、商品開発で忙しいと聞いているのですが、ちょっとだけ手伝ってもらえませんか?」

「薬の調合ですか?」

「それもですが、薬草摘みに手が回らなくて」


 少し疲れた顔をする薬師の男性は、わさわさと髪をかき乱してため息をついた。


「どうしてか、マグノリアさんの軟膏ばかり減りが早いんですよ。調合に人手を回したら、リンデンの花摘みに手が回らなくて」

「そういうことでしたら、お手伝いしますよ。他で代用が出来ないかレシピの見直しもしますね」

「助かります。では、今日はリンデンの花摘みをお願いします」

「分かりました。レシピは後でお持ちします」

「ありがとうございます。では、よろしくお願いします」


 ぺこぺこと頭を下げながら、薬師は慌ただしく部屋を去った。


「なんだか、大変ですね。リンデンの花を使ったのって、特別な軟膏なんですか?」

「そんなことないわよ。他の薬師が出してるレシピで同じ効能のものもあるわ」

「うーん……マグノリア様のファンがいるとか?」

「何よそれ。薬師の名前を付けて売り出してる訳でもないし、そんなことないでしょ」

「え、でも! この前、マグノリア様の薬が欲しいって来た武士がいましたよね」


 エミリーの言葉で、春之信さんと初めて会ったあの日を思い出した。


口伝くちづてに、広まっているのかもしれませんね」

「私の薬じゃなくて、商館の薬として広まって欲しいわね」

「そうですね。私も後で花摘みのお手伝いにいきますね」

「助かるわ。ありがとう」

「いつまでも花摘みしていたら、藤倉の殿方とお会いできませんからね。頑張りましょう!」

「そうね……って、だから、そういうんじゃないのよ!」


 さらりと頷いてしまい、はっとした。そんな私をエミリーは鏡越しに見ていた。にやにやと口許を緩めている。

 分かってますよって言うけど、きっと分かってないわ!


 鏡の中で、すっかり髪が整えられた私が顔を赤らめていた。

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