第17話 嬉しさのあまり、彼の手を握りしめてしまいました

 早く日誌を読みたくてそわそわしていると、エミリーが手元を覗き込んだ。


「何が書かれているんですか?」

「藤倉のご隠居が、昔ストックリーと旅をした時の日記よ」

「ストックリー? マグノリア様の憧れの学者さんですね!」

「ええ。こんな貴重な書物を読めるだなんて、幸運だわ」


 日誌の中を見たエミリーは首を傾げ、よく分からないという顔をする。彼女は、恒和の言葉を読み書きできないし、興味がないのかもしれない。

 ふと顔をあげると、そこにいた春之信さんは、どこか申し訳なさそうな顔をしていた。


「何度も申しますが、それほど貴重なものではございませんので」

「そんなことはありません。ストックリーと旅をされた人物は少ないので!」

 

 春之信さんは何を言ってるのかしら。

 ストックリーの書籍は数多あれど、彼と共に旅をした人の記録は少ないのよ。そんなの、お宝級の書物に決まっているわ。しかも、藤倉様が書き記したものとなれば、きっと、複製なんてものはないだろう。いくら春之信さんが書き写してくれた物といっても、扱いには気をつけないといけないわ。


 頬が緩むのを抑えきれない。

 胸にしっかりと書物を抱きしめると、横でエミリーが少し引き気味に、良かったですねと言った。


「先日頂いたものも、読めなかった場所があるんです」

「後で、ご説明します」

「ありがとうございます!」


 咄嗟に春之信さんの手を掴んで礼を言えば、切れ長の瞳が見開かれた。

 しばらく無言で見つめ合うようにしていると、春之信さんが低くいいえと呟く。


「……貴女を手伝うよう、お祖父様からもいいつかっておりますゆえ」

「本当にありがとうございます」


 喜びに打ち震えていると、横でエミリーがしみじみと「マグノリア様にも、ついに春が」とか何とか呟いた。

 何を言っているのかしら。お礼をするのに握手をするのは当然じゃない。


「マグノリア様って恋に興味がないと思ってましたが、意外と、大胆なんですね」

「え……?」

「やっぱり、素敵な殿方と出逢われていたんですね」


 にこにこと笑うエミリーの視線が、私の手に注がれた。

 いや、だからこれはお礼の気持ちを現したものであって、他意はないのだけど。──急に、自分の行動が気になりだし、ふと春之信さんの表情をうかがってみた。

 表情が固い。困っているというより、少し照れているようにも見える。


「……こ、これは! 違うんです。ごめんなさいっ!!」


 次第に、自分の行動が恥ずかしいもののように感じて、体温が一気に上昇した。耳の先まで熱い。きっと、今の私は真っ赤な顔をしているに違いないわ。


 突如として謝り出した私に、春之信さんもどうしたら良いか分からなかったのだろう。何とも言い難い顔をして曖昧に頷いた。

 気まずさが漂い、木陰で休んでいた小鳥が小さく鳴いて飛び立った。

 

「いやぁ、それにしても、藤倉殿は凄いですな」


 間延びした声に振り返ると、穏やかに笑う弥吉さんが忙しなく首筋をかいていた。

 

「異国の言葉を話せているじゃないですか! この前も、そうして下されば良かったのに」

「いえ……薬師殿が私に分かりやすく話して下さっているのです」

「私にはさっぱり分からんですぞ。ご謙遜なさるな。では、藤倉殿、先日の礼をしたいと、改めて伝えてもらえますかな?」

 

 にこにこ微笑えむ弥吉さんは、春之信さんに何やら筒のようなものを渡した。紙を丸めたもののようだわ。


「薬師殿、こちらは先日のお礼だそうです。お受け取りいただきたい」

「先日?……いいえ。薬代も頂きましたし、薬師わたしの仕事をしただけです」


 薬代もきちんと商館に入っているし、それ以上のものを貰う訳にはいかない。

 困りながら微笑むと、春之信さんは私の気持ちを察してくれたのだろう。それを無理に押し付けることなどせず、弥吉さんに向き直った。

 

「薬代を受け取ってるゆえ、それ以上のものは受け取れないと申してます」

「それでは、私が女房に怒られます! 心ばかりのものです。どうにか受け取ってもらえんだろうか」

「しかし……」

「あんなに泣いてばかりだった蕎麦屋のお梅が、家まで礼に来たんです。部屋を出ようとしなかった娘がですよ! 肌の調子が良いと、今度は嬉し涙を流すんです。それを見た女房も、大層、喜びましてな。私たちの気持ちを受け取って欲しいのです!」


 興奮気味の弥吉さんは、ぺらぺらと何か話して、必死に春之信さんを説得しようとしているみたい。残念なことに、私では彼の早口を聞き取ることは出来ない。


 多分、お礼を受け取るよう説得してとほしいとか、訴えているのだろうけど。どうしたものかと、エミリーと顔を見合わせて黙るしかなかった。

 小さく息をついた春之信さんと視線が合う。こちらも、困った表情のままだった。

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