第三章:恋

ぴゅい、と澄んだ音で口笛が鳴った。

雪原の中を雪煙をあげて、コナとコタが駆けてくる。

二頭は勢いをつけて一清に飛びかかると、我先にとその手にある干し肉に食らいついた。

「待って待って、順番!」

尻もちをつきながら、一清は満面の笑みで二頭をいなす。

そこへ、一清に近づく影が一つあった。

最初、米粒のように見えたその影も、形があらわになるにつれて、一清の顔が段々と曇って行った。

本土からの使者、吉原正明であった。

昨夜は村長の家でこの男をもてなす場が設けられたが、隣に座って酌をする羽目になった一清は一晩中その長話を聞かされたのだった。

しきりに酒を勧めたため酔いつぶれてくれたからよかったものの、あのままこの男の相手をすることになっていたらと思うとぞっとした。

そんなことを考えながら一清は、顔だけは笑顔で正明を迎えた。

「おはようございます使者様」

正明は雪にきらめく太陽の光をまともに目に受けてまぶし気に一世を見やった。

「おはよう、一清。正明でいいよ」

そう言うと正明は、一清に向かってにっと笑ってみせた。

コナやコタのような大きな白い八重歯が、その口からのぞいたのを一清は見逃さなかった。

「では正明様、こんなところへ何をしに」

「いや、話をしようと思ってな。村の者に一清の居場所を尋ねるとここだと言うのでやってきた」

意外な答えに、一清は目を丸くした。

「私と、話ですか?何を話すと言うのです」

一清は真顔で答えていた。

その顔を見て、正明は大いに笑った。

「これはしたり。この正明、実のところ、おぬしに惚れてしまったのよ」

一清は正明の顔を信じられないものを見るような目で凝視した。

正明は満面の笑みである。

その様子を見て、今度は一清が吹き出した。

「ご冗談を。たった一晩、酌を務めただけでございます」

「この村では、十六歳になると大人の扱いをするそうだの」

その言葉を聞いて一清は、ぎくり、と身をこわばらせた。

主人の様子を感じ取ってか、コナとコタは先ほどから足元で大人しくしている。

「おぬしを妾にしてやってもよい。北の大地に妾が一人おっても誰も困るまい」

一清は正明の顔をまじまじと見たが、その笑顔は自信にあふれて見えた。

「そう、言われましても」

十六になると大人として扱われるということの意味が、十六になると女として扱われるという意味に等しいとは、一清はこの時初めて知った。

村の男たちにとって、一清はいつまでも一清だった。

村には年頃の男がいないでもなかったが、朝から狩りをして戻ってくる一清に向かってくる男など皆無だった。

それが、この男は一清を女として扱っている。

一清にはそれが新鮮に思えた。

「おぬしを殿に会わせたいな」

正明は、そんなことを言った。

唐突な話題の転換に、一清はついていけなかった。

「殿とは?」

きょとんとする一清の顔を見て、正明は破顔した。

太陽のきらめきの下で無防備に和らぐその笑顔を、一清は不覚にも、愛おしいと思った。

「ああ、殿というのはな、俺の主のことだ。俺が住んでいる土地の地頭でもある。偉いんだぞ」

正明はそう答えたが、目をそらした一清は聞いていない風である。

「一清?」

一清は正明と目を合わさないまま、両手で足元のコナとコタを撫で始めた。

「そ、そうでございますか。そ、その殿という方はどのような方でございますか」

きっと赤いであろう顔を、この男には見られたくない。

一清はとにかくこの場をやり過ごさねばと、適当な質問を投げかけていた。

「俺の主は力様といってな。強欲な方なのだが、しかしその気質がいやらしくなく、とても気持ちのいいお方なのだ」

一清は、そう言う正明の顔をちらりと見た。

その目はまっすぐにこちらに向かっている。

「へぇ、お会いしたく思いますね」

これもまた、一清の口から出た適当な言葉であった。

そうとは知らない正明は、この言葉を受けてますます顔をほころばせた。

「そうかそうか、会いたいか。一清の親父殿の許しがあればすぐにでも会わせてやるぞ。その時は俺の妾としてな」

そう言うと正明は顔いっぱいに口を開けて盛大に笑った。

一清は、そんな正明を、なんと気持ちの良い人だろうと、今やまぶし気に見つめていた。


村の船着き場に沿って建てられた小屋の中で、明記はしわがれた手を、一人かまどで温めていた。

冬の寒空の下、午前中に終えた漁の片づけを手伝い、体は凍えるほどに冷たくなっていた。

まったく、何故俺がこのようなことをせねばならぬのか。すべてはこの赤子の霊が悪いのだ。

そう口の中で毒づくと、明記は肩の上にぼんやりと浮いている赤子を見やった。

誰に目にも明らかなその霊であったが、穏やかな村人はそれでも明記を村の一員として受け入れ始めていた。

ここで余生を送るのも悪くはない、か。

明記がそう、ひとりごちた時であった。

勢いよく、背後の扉が開いたかと思うと、数人の若い大男たちが小屋に入ってきた。

「なんだなんだ、明記のじいさん、ひとり早くあがらせてやったのに囲炉裏の火も焚いてねぇじゃねえか。何ひとりで温まってるんだよ」

そう言うと、大男のうちの一人が、手のひらで明記の頭をぱしっと小突いた。

その瞬間、明記の中で、何かがはじけた。

この、田舎者ふぜいが――。

「これはこれは、大変失礼いたしました」

明記はそう言うと、いそいそと囲炉裏に火をくべだした。

そこにあぐらをかいて座りだす男たちであったが、その背後で刃物を手にした明記が、ぬらりと動き出すのを知る者はいなかった。

明記は、かつて地頭であった時のことを思い出していた。

若い頃は武芸に励み、何かとあれば配下の者を従え領地内を巡っていた。

「ふむ、力は落ちたが、腕は落ちていないようだな」

音もなく、今、明記の前には男たちの物言わぬ死体が転がっていた。

「じいさん、だと。人を年寄扱いしやがって。そのような者は成敗せねばならぬな」

そう言うと明記は、男の腰から刀を一本抜き取った。

やがて漁から帰ってきた男たちがこの小屋にどっと入ってきたが、そのたった一人すらも、明記の凶刃から逃れることは出来なかったのである。

日が暮れる頃には、小屋の中は漁に出た男たちの死体で埋め尽くされているのであった。





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