第二章:明記
その夜、一清は村長の家に呼ばれた。
村長の家は、この村で一番大きな作りをしている。
今、この家の中では、本土から迎えた使者をねぎらうため、村人総出の大宴会が開かれているのであった。
男たちは囲炉裏の周りに車座になり、女たちはその周囲で男たちの世話をしている。
そんな中で、一清は、年頃の娘だという理由で、男たちの間を忙しく行き来し酌をして回っていた。
一清が、呼ばれて使者の元へと足を運んだ時のことである。
酒をついだ一清の耳元で、本土からの使者がこう吹いた。
「先ほどからかわいい娘さんがいると思ったら、やっとこちらへ来てくれた」
それを聞いていた村の男たちは、「やぁ、使者様は一清のような女子がお好みらしい」と口々にはやしたてた。
一清は、いい気分はしなかったものの、これも務めと、きっと口を真一文字に結び使者の世話に当たった。
「そのような顔も、かわいらしいのぅ」
ふくれっ面になった一清の顔を見て、使者は重ねて、そんなことを言った。
一清の気分はますます悪くなったが、村の男たちによって使者の隣に座るよう言い渡され、一清はしぶしぶそこへ腰をおろした。
それを見て、村の男も女も、いっそう湧きたった。
人のひしめき合う村長の家の中で、人々の熱気が二人を中心に渦巻いていた。
使者は、名を吉原正明といった。
日に良く焼けた体格のいい大丈夫で、笑う時には豪快に笑った。
その正明は、目の前に居並ぶ旭村の者たちに、殿からの手紙だと言って、自分が携えてきた手紙を懐から取り出し、広げて見せた。
そこには、旭村の特産品である皮細工や鮭などをもっとよこせと書いてあった。
その手紙の内容を、村の中で字が読める者が大声で読んで聞かせた。
「あたしらの皮細工の評判だよ」
特産品のことを褒めるくだりを聞き、村の女たちは顔を見合わせきゃっきゃと喜んだ。
一清は、それに続く手紙の内容に耳をとめた。
手紙には最後に、礼として近頃流通している貨幣というものを与える、とあった。
その一文が気になった一清は、なれなれしい使者に声をかけるのはためらわれたものの、好奇心が勝って、気が付くと使者にこう尋ねていた。
「使者様、貨幣とは、どのようなものでございましょう」
突然の問いに、赤ら顔の正明は大きな目でぎろりと一清をにらむと、次の瞬間、がははと大きな口を開けて笑い出した。
正明の口から唾が飛んだ。
それを受けて、一清は心の中で毒づいた。
この、酔っ払いめ。
そんな一清の顔色など気にもしない風に、正明はにたにたと笑っている。
「一清は貨幣に興味があるのか。ほうほう、これはよい女子じゃ」
正明はそう言うと、自分の懐から小さな袋を取り出した。
そしてその中から、丸を押しつぶした形の金板を数枚つかみ一清に見せたのであった。
「これじゃ。これが貨幣よ」
小さな金板の表面には、読めはしないが、何やら文字が刻んであった。
手渡された小銭をうやうやしく両手で抱え、一清は物珍し気に凝視する。
「へぇ、これが、今本土で流行している貨幣なのですね」
指で叩いてみたが、ただの固い金板のようである。
「こんなものに、価値があるのでございますか?」
一清は思わずそう尋ねていた。
「はっは、一清は手厳しいな。価値があると言えば、ある。この貨幣数枚集めれば、布や食べ物と交換してもらえるのだ」
「誰がそのようなことを信じましょう」
一清には心底、不思議であった。
正明はこれを聞いて、おおいに笑った。
「そういう決まりなのだ。この貨幣数枚と、布や食べ物を交換できると、偉い方々が決めた。我らはそれにのっとって貨幣を集め、好きなものと交換する。ただそれだけよ」
いまいち仕組みのよく分からない一清に、正明は言葉を変え、身振り手振りを交えて熱心に貨幣の便利さを熱弁しだした。
それを見て村の男たちは、「使者様はよほど一清のことをお気に召したようだ」と口々にもらした。
女たちは男たちの後ろで二人を見ながらくすくすと笑っている。
一清はそれらに気づかないふりをしながら、未だかつて見たこともないこの貨幣というものに並々ならぬ関心を抱くのであった。
「この貨幣の便利なところはな、何とでも交換できる上に、金板のため腐らぬしかさばらぬ、お上のお墨付きがあるため安心して取引が出来る点よ」
この夜、正明の熱弁は、夜遅くまで続いた。
さてこの旭村の港に、今、一人の男が流れ着いていた。
五十近い老爺で、腰は曲がり、頭は白髪交じりの髪の毛が少々残るもののてっぺんから見事に禿げ上がっていた。
名を、橘明記といった。
しかし明記の目は何をも捉えることなく、宙を漂っていた。
誰もが彼を避け、歩けば後ろから指を指した。
無理もない。明記の肩には、幼い赤子の霊が、ふわふわと憑いているのが素人目にも見て取れた。
明記はかつて、本土の相模という地の一地頭であった。
とある不可思議な体験を経て肩に赤子の霊を乗せるに至ったが、それが不幸の始まりだった。
肩に赤子の霊を乗せた者に誰が頭を下げるであろう。
人々は明記の元から逃げ出すように去って行った。
残された明記は、つてを頼って男一人、今まで細々と生き延びてきた。
そんな明記の心には、幼い頃から抱いていた老いへの恐怖が、身に起こった不幸で勢いを増し、今ごうと音を立て体の中を渦巻いているのであった。
自身も老年となった明記にとって、今や自分自身すら憎悪の対象となっていた。
いつしか明記は、「許さぬ…」と口にしながらさまよう、そんな老人となり果てていたのである。
その明記が、何をもってかこの旭の村に流れ着いた。
心根のあたたかな旭村の住人の幾人かは、それでも明記に同情し、宿を与え、食べるものを与え、そのうちに一緒に漁に出るよう声をかけるまでに至っていた。
明記はいつしか、旭村で知らぬ者はいない、一風変わった名物老爺となっていたのである。
しかしこの老爺が、村ひとつを飲み込むおそろしい存在になろうとは、この時はまだ誰も予見し得ないのであった。
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