【常世の君の物語No.8】一清

くさかはる@五十音

第一章:一清

一筋の涙が、頬をついと流れた。


一清(いっせい)は、片手でぐいとそれをぬぐった。

そのままにしていては、この気温だとしばらくすれば凍ってしまうからだった。

大きな目に映るのは、一面の雪原である。

雪の中で上半身を起こすと、一清はぴゅいと口笛を鳴らした。

しばらくすると、その音を聞きつけて真っ白い雪煙をあげながら大型の犬が二頭かけてきた。

「コナ!コタ!」

名を呼ばれた二頭の犬は、揃って一清に飛び掛かる。

一清は大声で笑いながら二頭の頭やお腹をなでじゃくる。

甲高い一清の笑い声は、しんと静まり返った雪に吸い込まれては消える。

後に残るのは晴天の下、耳に冷たい冬の風だけである。

ここは北の大地。

政権が鎌倉の地に移った後も、京の都からの支配を拒み独立を保つ、蝦夷と呼ばれる地である。


辺り一面、雪原の中、一清は藁沓で慎重に歩き始めた。

目指しているのは、すぐそばの茂みである。

冬でも枯れない草木の茂みに身を隠すと、一清は背中に背負っていた弓矢を取り出し、それを今歩いてきた雪原へと向けて深呼吸をした。

ふぅ、と口の中で軽く息を吐き、そのままじっと動かない。

先ほどまで耳をかすめて吹いていた風も、この茂みの中までは届かない。

自分の呼吸の音と、心臓の音と。

一清はじっと、その時を待った。

やがて太陽は傾きを変え、その熱線で溶けた雪が雫に戻ろうかという頃、雪原の中を一本の矢が貫いて飛んだ。

一清が放ったのである。

と同時に、二頭の犬が矢を追いかけるようにして茂みから飛び出てゆく。

一清は両手で輪っかを作りその中から雪原を見やった。

一面真っ白な中、黒い矢は地面に垂直に立ち、根本から動いている。

そこに、二頭の犬、コナとコタが頭を突っ込んでいる。

ぴゅい、と、一清は口笛を吹いた。

二頭の犬は口元を真っ赤に染めたまま一清を振り向き、捕らえた獲物をくわえて茂みまで戻ってきた。

「ようし、よくやったね、えらいぞ、コナ、コタ!」

手元に放り投げられた兎は、背中に矢を立て、ぐったりとしている。

その腹には、今しがた二頭の犬が着けたであろう傷が鮮やかに広がっている。

一清は兎から矢を引き抜くと、血をぬぐいそれを背中に背負った袋に納めた。

それから兎の両耳を縄で縛り、全体を肩にかついでぶら下げた。

そこへ、ぴゅい、と山のふもと辺りから口笛が聞こえた。

二頭の犬がすぐさま反応する。

「おっ呼ばれたな」

雪原に出て斜面を見下ろした一清は、そこに広がる村の端に老婆が立っているのを見つけた。

「おばあが呼んでる。帰ろう」

そう言うと一清は、二頭の犬を従えてそりの上に乗った。

雪原から村へと続くなだらかな斜面を、一清のそりが風をきって滑ってゆく。

その後ろを、二頭の犬が追いかけて。

一清の村は旭といった。

このあたりでは一番大きな港を持つ村であった。


「だたいま、おとうは?」

裏口から屋内に入るや、乗っていたそりを家の柱に立てかけ体についていた雪を払い一清は、出迎えた祖母に尋ねた。

「漁に出とるよ」

「そっか」

旭村では、男たちは昼間、漁に出ている。

ここいらでは鮭がよく取れる。

「おかあは?」

家の中を見渡すも、いつも賑やかしくしている母の姿がない。

「炭さんとこに行っとる」

炭さんというのは、一清の家の隣に住む一家のことである。

「子供らは」

「外で遊んどるよ」

耳を澄ませると、なるほど確かに表の広場からは子供たちの声が聞こえてくる。

一清は、祖母が抱いている赤子に目をやった。

「ちい子はよく寝てるね」

「そうだな、よく寝とる」

祖母は顔をくしゃくしゃにして答えた。

「私も炭さんとこ行ってくる」

山行きの恰好を解いて身軽になると、一清はそう言い置き、道具箱を持って外へ飛び出して行った。


「こんにちはーお母さん来てる?」

炭さんの家の戸をくぐると、一段高くなった囲炉裏を囲って、村の女たちが細工を拵えているのが目に入った。

皆、声のした入り口の方に向かって一斉に顔を上げる。

「あらあら、一清、山から降りてきたのね」

一等ふくよかな一清の母が、一団の中から立ち上がり一清に駆け寄ってきた。

「うん、兎を一頭仕留めたよ。割と大きいやつ」

一清はそう言うと鼻の穴を大きくして母に笑みを向けた。

「そう、今夜みんなで食べましょうね」

母の兎料理は格別である。

「いいなぁ、兎料理か」

「私も食べたーい」

他の女たちが声を上げる。

見ると、皆、囲炉裏の火にあたりながら、しきりに手を動かしている。

「今度みんなの分も狩ってきてあげるからね」

一清はそう言うと、母が座っていた隣に席を空けてもらいそこへ腰をおろした。

それから持ってきた道具箱を広げると、皆と同じように細工作りに精を出し始めた。

この村には大きな漁港があり、そこに本土の船が定期的にやってくる。

本土の人間は、女たちが作った皮細工を、割といい物と交換してくれるのだった。

本土の暦でいえば初冬にあたるこの時期、村は雪で閉ざされる。

女たちの作っている皮細工は、村に一定のうるおいをもたらしているのだった。


その夜、一清は皆が寝静まった後で、一人表の広場に出た。

空気はきんと冷え、風は珍しくおだやかで、頭上には満天の星空がひろがっている。

珍しくもないその光景を前に、それでも一清は、今年は十六歳なのだなと思った。

この村では、十六歳になると、男も女も大人とみなされる。

果てしなく広がる夜空の下で、小さな小さな自分という存在が、果たしてこの先どのような人生を送るのか、一清はふと、そんなことに思いを馳せるのだった。

広場の中央には、捕らえられた熊が、目を光らせて一清を見つめていた。

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