最推しの悪役?令嬢を拾った

柊 凪

最推しの悪役?令嬢を拾った

「あっ」


 商会の店先に出た俺の目に写ったのは明らかに場違いな女性だった。

 美しい金髪はキラキラと輝き、明らかに貴族とわかるドレスの上にコートを羽織っている。

 かんばせは美しく整っており、肌の艶もどう見ても高級な化粧品を長年に渡って使っていなければ出せない艶だ。

 しかしその女性の表情はどうだ。どう見てもハイライトが消えている。困惑しているというよりも諦観に包まれているようだ。そしてどう見ても貴族令嬢とわかる装いなのに侍女や護衛すらいない。そんなことはロイドの常識で考えてもあり得なかった。

 ここは王都2区の比較的治安の良い場所だ。彼女が襲われるのは3区に入ってからだろう。コートから垣間見えるドレス1つ取っても、アクセサリー1つ取っても平民では手が出ない一級品だ。どう考えても彼女が無事に王都を抜けられるとは思えない。

 なにせ彼女は貴族街の門からおそらくまっすぐ2区の大通りをふらりとしながらゆっくりと歩いている。

 自分の足で歩き、馬車に乗っていないということ自体ありえない。

 周囲の者たちも明らかに厄ネタだとわかっていて彼女に手を出さない。

 裏にどんな貴族が控えているかわからないからだ。


(どんな状況だ? 攫われたらどう考えても酷い目にあうどころの話じゃないぞ)


 そんな麗しいが瞳の焦点の合っていない推定貴族令嬢はロイドの、いや、ロイドの家族が営む商会の前を通りがかった。

 しかし商会に立ち寄ろうともしないどころかこちらを向きもしない。


(どこかで見たような。デジャビュか?)


 ロイドは転生者だった。ただし定番の神様は現れず、チートも貰えない。気がついたら前世の記憶持ちの大商会の三男として生まれ、前世の知識を引っ張り出してなんとか商会の中で地位を築いてきた。


「ちょっとそこのお嬢様」

「……はい? わたくしのことかしら」

「そうです。貴族のお嬢様とお見受けいたします。護衛や侍女はいかがなさいましたか」

「わたくしは今日限りで勘当されました。平民の生活など勝手がわからないためにどこかの修道院に行こうと思いましたがどこを訪ねれば良いかわかりません」


 ロイドはそこで初めてお嬢様の顔を正面から見た。

 顔がボッと赤くなった。


(なんだ、一目惚れか、いや、違う。前世の記憶で何か引っかかる。美しい女性なのは間違いないが)


「そうですか、大教会を訪ねれば修道院もご紹介いただけると思いますが、大教会は2区の反対側にあります。少しお疲れのようですし当商会でしばしお休みになられてはいかがでしょう」

「……そうですね。少し疲れましたしお腹もすいているようです。今気付きました。お言葉に甘えても」

「もちろんです。私からお声がけしたのです。問題などございません」


 むしろ問題はある。大いにある。なにせ勘当された貴族令嬢を勝手に商会に招き入れるのだ。今後どうなるかなど誰にもわかりはしない。

 しかしロイドには悲惨な運命が明らかに訪れることがわかっている美少女に手を差し伸べないという選択肢はなかった。彼女がこのまま歩いて大教会にたどり着ける可能性はいくら治安の良い2区と言っても5割といったところだろう。

 そして教会にたどり着いて修道院に入るとなると強欲な教会に彼女のアクセサリーやドレスは没収されてしまう。一文無しになるのと同義だ。さらに修道女の暮らしは厳しいことで有名だ。貴族のお嬢様が耐えられるとは思えない。

 ロイドがアクセサリーなどを相応の値段で買い取れば使用人を付けた暮らしすらできるだろう。ならばそちらへ導くべきだとロイドは考えた。


「サバス、彼女を応接室へ。軽食と最上級の紅茶を」

「はっ、かしこまりました」


 ロイドはロイド付きのサバスに命令を下すと即座に彼女の手を取って商会の中に案内する。

 明らかに足元が不安だったからだ。

 熱中症になる季節でもなんでもない。むしろ彼女の服では寒いのではないかと思う季節だ。


「ありがとうございます。女神様に感謝します」

「いえいえ、お気になさらずに」


(女神様じゃなくて俺に感謝してほしいな)


 ロイドはそう思ったが口に出すほどのバカではなかった。


「私はアンネリーゼ・フォロイスと申します。いえ、フォロイスの名は名乗れなくなったのですね。ただのアンネリーゼです」

「ではアンネリーゼ様ですね。フォロイス家は存じております。上級貴族で伯爵位を国王陛下から授けられているお家柄ですよね」

「その認識で間違いはございません」

「それで、どうしてアンネリーゼ様が勘当されて修道院などに?」


 アンネリーゼは軽食のサンドイッチを優雅に食べ、紅茶も静かに飲み干してから事情をゆっくりと説明し始めた。


 事の発端は子爵家の令嬢らしい。

 アンネリーゼの婚約者であったトルトーレ侯爵家の次男であり、現騎士団長の息子であるトリーニヒト・トルトーレがその子爵令嬢に懸想し、ライガス貴族上級学園の卒業パーティ中に急に婚約破棄を一方的に叩きつけられたというのだ。

 トリーニヒトは子爵家の令嬢にアンネリーゼが数々の嫌がらせをして、最後には階段から突き落とし、あわや大事故になるところだったと熱弁した。

 そしてアンネリーゼとの婚約を破棄し、子爵家令嬢と婚約をすると宣言した。

 それに乗ったのが王太子殿下だ。

 トリーニヒトと仲の良い王太子殿下はアンネリーゼを断罪し、貴族籍からアンネリーゼを抜き、平民として生きることを強いたと言う。

 それがほんの1日前だ。

 ちなみにアンネリーゼの談だが嫌がらせや階段から突き落とすなどの行いは欠片も覚えがないらしい。

 アンネリーゼの取り巻きも侍女もなぜそんなことになっているのかと怒りをあらわにしたという。

 しかしながら王太子殿下の仰せだ。フォロイス伯爵家も従わない訳にはいかない。例えそれがどんなに理不尽な命令だとしてもだ。

 爵位の差というのはそれほど重い。ましてや王族だ。逆らえばフォロイス伯爵家が取り潰しということも考えられるだろう。


 アンネリーゼはフォロイス伯爵家の中では可愛がられていたようだ。

 父親はその力が及ばないことを嘆き、母はあまりのことに倒れて寝込み、兄はトリーニヒトに決闘を申し込んで斬ると息巻いていて、妹は姉の行く末を心配してくれたらしい。

 それはともかくアンネリーゼの処遇である。できるだけの物を持たせてやりたいが平民として暮らすべしという命令に等しい王太子殿下の言葉がある。

 平民用の服など存在しないのでドレスの中でも高く売れる物を着させ、アクセサリーも上等な物をつけている。更に魔法のカバンには大金貨100枚が入っているそうだ。彼女の家族がどれだけ彼女を愛していたか、心配していたかが窺える。


 しかしそんなものは盗賊や裏稼業の者にとっては鴨でしかない。治安の悪くなる3区に行けば速攻で彼女は裏路地に引きずられ、アクセサリーもドレスも、魔法のカバンも奪われ奴隷商に売られるか裏社会を仕切っている者の慰み者になるのが関の山だろう。


 だがロイドは他のことを考えていた。


 (フォロイス伯爵家? トリーニヒト・トルトーレ? 聞いたことがあるぞ。と、言うかアンネリーゼ・フォロイスも聞いたことがあるはずだ。記憶からほじくりだせ)


 フォロイス家もトルトーレ家も名門だ。名を聞いたことくらいある。だがそうではない。ロイドの前世の記憶に引っかかる物があるのだ。


「そうだ、『ライガスの楽園』だ」

「ライガスの楽園、それはいかがなものでしょうか?」


 アンネリーゼは突然叫びだしたロイドに驚いたように問いかけた。

 しかしそれに答える訳にはいかない。

 ロイドはすでに20歳だ。20年以上前の記憶を引っ張りだすのは非常に苦労した。

 「ライガスの楽園」というのは妹が前世でハマっていた乙女ゲームだ。アドベンチャーパートが難しく、ゲームの得意な兄であるロイドが幾度も手伝ったことがある。

 そしてアンネリーゼ・フォロイスやトリーニヒト・トルトーレはそのゲームに出てくるキャラクターであった。

 更に言えばロイドはアンネリーゼ推しであった。単純にビジュアルという意味でドストライクだったのだ。実物のアンネリーゼは更に美しく、すぐには気が付かなかった。

 ゲームの主人公であり他の令嬢の婚約者を次々と奪う子爵令嬢、彼女は元孤児であり子爵家にそのスキルを見出されて養子になった女で、全くもってロイドは共感できなかった。見た目は主人公らしく可愛らしいとは思ったが。

 乙女ゲームというのはそういう物だというのを知っていても、明らかにご都合主義が過ぎると思うのだ。なにせ王太子殿下を含めたハーレムエンドまで存在する。現実に王太子殿下だけでなく公爵家や侯爵家、伯爵家の男たちを手球に取り、逆ハーレムを築くのはライガス王国の常識ではありえないことだ。

 ゲームならばめでたしめでたしで終わるのだろうが、現実ではそうはいかない。

 泥舟に乗るわけにも行かないのだ。もしそうならロイドも父親に進言してライガス王国からの撤退を考えなければならない。

 ロイドの実家の商会は他国の王都にも支店を持っている。そちらに本店機能を移せばライガス王国の混乱に巻き込まれずに済むだろう。


「しばし御前にて失礼いたします。ダーカス」

「はい」

「王太子殿下の婚約者、バルドライト公爵家の子息の婚約者。リーダ侯爵家の子息の婚約者について調べてくれ。それぞれ上級貴族の婚約者がいるはずだ」

「はっ、直ちに」


 ダーカスは元Aランク冒険者の斥候をしていた男だが膝に矢を喰らい、上級ポーションでも治らずに若くして引退してしまったハンターだ。

 矢と言っても呪いの掛かった魔法の矢で、ポーションや教会の浄化でも間に合わなかったらしい。

 それを知ったロイドは彼をスカウトし、諜報部隊、いわゆる忍者部隊を作り上げた。部隊名もニンジャである。

 情報は武器である。更に忍者はロマンだ。作らない理由がない。

 ダーカスに見出されるほどの斥候の能力があったり、あまり良い待遇で扱われていない冒険者の斥候をスカウトしてもらい、鍛えさせ、ロイドの忍者部隊は20名ほどの人数がいる。

 わざわざ忍者スタイルのお仕着せを着させ、ロイドはご満悦だ。


 そんな彼らにロイドが調べるよう指示したのは残りの悪役令嬢役とされる女性たちである。

 実際に実家の権威を笠に着て嫌がらせをする性格が悪い悪役令嬢もいるが、大概は取り巻きが忖度して子爵令嬢に嫌がらせをするのが定番だ。本人の預かり知らぬ所でいじめは行われ、階段から突き落としたというのが事実だとしてもアンネリーゼの預かり知らぬ所だろう。

 他の悪役令嬢やその取り巻きが行った悪事がアンネリーゼのせいにされた可能性は否めない。

 なにせアンネリーゼは多少気を持ち直したとはいえおっとりした令嬢で間違えてもそんなことをするような女性ではない。

 実際ゲームの中のアンネリーゼもそんな性悪女に描かれていなかった。

 それはトリーニヒトルートがイージーモードであり、アンネリーゼもそれに伴ってそれほどゲーム内では出番がなかったという裏事情もある。


「あの」

「あぁ、申し訳ございません。少し考えることがございまして。貴族のお嬢様をおまたせする無礼をお詫びいたします。平民でございますため高貴な方々への振る舞いに至らぬ点もございます。厚かましいお願いとなりますが、お目こぼしを頂けますでしょうか」

「構いません。そもそもわたくしは既に平民に落とされた身であり、敬称も不要です。アンネリーゼとお呼びください。ロイド様はわたくしがどうすれば良いか困っていたところに声を掛けてくださった稀有な方です。わたくしは貴方を全面的に信用することに致します。と、申しましても奴隷商などに連れて行かれては堪りませんが」

「流石にそんなことは致しませんよ。ご安心ください。むしろアンネリーゼ様を当商会にてしばらく匿わせていただきたいと思っております。情報が足りておりません」

「父は優しい方です。家を追い出さざるを得なかったとは言えわたくしがどうなったのか確かめようとするでしょう。ロイド様に問題が降りかかるのではないのですか」

「平民に落とせと申し渡されて平民の商会に拾われたのです。問題は起こりえません。また、フォロイス家は当家に大金貨2万枚、トルトーレ家は5万枚を超える借入金があります。フォロイス家やトルトーレ家が何を言ってきたとしても即座に返済を求めれば口をつぐむでしょう。去年は大規模な洪水がありましたからね。情報が出揃うまでしばらく当家でゆっくりとなさってください。アンネリーゼ様も急なことでお困りでしょう。当家は応接室も客室も貴族の方のお眼鏡にかなうようしつらえております。また、使用人もご用意致します。どうぞお気兼ねなく、しばしの間おくつろぎください」

「わかりました。ロイド様にそう仰っていただけるのであれば是非もありません。しばらくお世話になると致します。しかしアンネリーゼ様というのは直していただきたいと思います。アンネリーゼで構いません。アンネリーゼですよ」


 ダメ押しまでされてロイドは引いた。アンネリーゼの視線が絶対だと言っていたのだ。


「ぐっ、わかりました。アンネリーゼ。ただ俺のことをロイド様と呼ぶのは止めてください。こちらもロイドで良いです」

「あら、少し素が出てきたようですね。そちらも素敵ですわ。ロイド、宜しくお願いします」




 ロイドはアンネリーゼを客室に案内し、使用人たちには間違っても失礼のないようにと厳命してから自室に帰った。


(うわぁ、マジでアンネリーゼだ。最推しの美少女が落ちてるってどういうこと。と、言うか画面でみるよりめっちゃ美人なんだけど。くそっ、うまく対応できたかな。まったく自信がないぞ。伯爵家令嬢相手に失礼がなかったとは思えないが、首が飛ぶほどではないだろう。と、言うかこれはトリーニヒトルートを主人公が行った結果なのかハーレムルートなのかでこれからの動きが大きく変わるな。ゲームならハーレムルートでも問題ないのだが現実でそんなことが起きれば国が乱れるのは間違いない。幸い他国の王都にも支店はあるし、財産は分散させている。ライガス王都本店を潰すとなれば痛いが挽回はいくらでもできる。父も兄たちも他国の商売に忙しいからな。くそっ、連絡を取るのにグリフォン便を使っても往復2週間は掛かるな。それにどう説明していいかわからん。どうしたものか)


 ロイドは執務室に突っ伏しながら頭の中がぐるぐるとなっていた。思考がまったく回らない。

 なにせ最推しのアンネリーゼがバッドエンドになって放逐されてしまっている場面に出くわしてしまったのだ。

 アンネリーゼでなくとも声くらい掛けていたとは思うがアンネリーゼほど手厚く保護するかと言えばそれは否だ。

 なぜなら金にならないからだ。多少の世話は焼くだろうがアンネリーゼほどの待遇は絶対に与えない。彼女は特別なのだ。最推しの令嬢だと判明した今、彼女を放り出す選択肢はロイドにはない。

 ロイドとその家族が営むルーデウス商会は王都でも5本の指に入る大商会だ。

 そしてロイドは前世の知識を使っていくつもの発明品を作り、すでに1部門を任され、支店のいくつかも任されている。

 と、言っても後継者争いをするつもりはないことを父と兄2人には明言し、今任されている部門と支店だけで十分だとはっきりと伝えている。

 ルーデウス商会を継ぐつもりはないのだ。むしろ独立してロイド商会を作っても良い。それだけの金はあるし父からもそうしたらどうだと言われている。

 そこらの下級貴族なんかよりもロイドは金持ちなのだ。


 実際ロイドは貴族たちとの折衝を任されたこともある。

 しかし貴族というのは商会に足を運ぶのではなく、貴族街に呼び出すものだ。そしてたまに明らかにおかしい値段で商品を買い取ろうとしてくることもある。

 王政、貴族制のライガス王国はガチガチの封建主義だ。大商会と言えど貴族に逆らうことは許されない。

 場合によっては家族従業員揃って族滅ということもありえる。

 だがルーデウス商会はさすがにその規模ではない。ルーデウス商会を潰されて困る大貴族はそれなりにいるのだ。ルーデウス商会を潰せば他国との外交にすら影響がでる。彼らの後ろ盾により、ルーデウス商会はこの封建主義万歳な国でもなんとかやっていけているという実情がある。


 とりあえずとりとめのないことを考えていたらようやく思考が落ち着いた。

 まずはアンネリーゼの処遇である。

 どうしたものか、考えても全く良い案がでない。

 ルーデウス商会でもロイドの支店で匿うのも全く構わないし、なんなら彼女は上等なドレスとアクセサリー、魔法のカバンに大金貨100枚を持っていると言う。

 大雑把に言えば大金貨は100万円ほどの金額に換算することができる。100枚もあれば1億円だ。アクセサリーと魔法のカバンを合わせれば10倍は行くだろう。

 伯爵家に住んでいた時よりは流石に生活水準が大幅に下がるが、彼女を適切な不動産屋に連れて行き、しっかりした使用人たちを雇わせ、それなりの暮らしをさせるのであれば一生困らないだけの十分な財産を彼女は持っている。王都は物価も地価も高い。貴族も多いのでおかしな貴族がいちゃもんを付けてくる可能性もあるので、もう少し牧歌的で、且つ治安の良い都市に連れていくのが最善だろう。

幸いにしてそういう街に当てはあるし、ロイドが預かっている支店もある。


 だがっ、だがっ。アンネリーゼは最推しなのだ。しかも画面で見るよりも実物は圧倒的に美しい。

 ロイドはいくらか恋愛経験はあったが、結婚するまでに至らなかった。兄たちはとっくに結婚していて、子も居たりする。

 20歳は男性なら結婚している割合は半々くらいだろう。だが女性で20歳を超えると行き遅れという評価になってしまう。

 いや、アンネリーゼほどの器量ならば多少年を食っていても手を上げる男は山程出てくるだろう。

 だがアンネリーゼを幸せにするためでなく、財産目当てや自身の欲望を満たすためにアンネリーゼを迎えようとする者が後をたたないことは容易に想像がつく。

 本人は気づいていなかったが、ロイドはとっくにアンネリーゼに首ったけだった。

 そして色々な理由をつけて考えないようにしていたが、アンネリーゼを自身の伴侶にしたいと無意識下では望んでいて、その炎はメラメラと心の中で燃えだしていたのだ。



◇ ◇



(ロイド様、親切な方でしたわね)


 アンネリーゼは昼食どころでなく夕食まで世話になり、更に新品のネグリジェまで与えられてふかふかのベッドの上で今日あったことを思い出しながら考えていた。

 ロイドは平民だというが清潔感もあり、見目も良い。上級貴族に対しての態度と言えば及第点ギリギリだろうが、しっかりと教育されていることが窺える。


(それにアレは・・・・・・)


 アンネリーゼと目が合った瞬間、人が惚れる瞬間というのをアンネリーゼは見た。

 音に聞く一目惚れというものだろう。ロイドはアンネリーゼに一目惚れしたのだ。そしてアンネリーゼもあれほどあからさまに惚れられてしまっては気付かない振りをするのが精一杯であった。おかげでこれからの人生がどうなってしまうかという不安が吹き飛んでしまったくらいである。


 婚約者のトリーニヒトは剣一筋の男であった。女性への配慮など皆無で、むしろなんで子爵家の令嬢が仲良くしているのかわからないくらいであった。

 確かに騎士としての評価は高い。貴族学園騎士科では上位の成績も取っていた。

 父親も騎士団の1つを任されている騎士団長である。家格も侯爵家と高く、悪くない。将来的には騎士団の1つも任されるだろう。幼い頃から剣の才に恵まれ、トルトーレ家でも期待されていたという。

 故にアンネリーゼはトリーニヒトの婚約者として選ばれたのだ。その時、12歳であった。

 12歳のトリーニヒトは乱暴な男子と言う感じでアンネリーゼは苦手だった。なにせお茶会でも静かにできないほどのやんちゃだったのだ

 木剣を持ち出し、反抗できない護衛たちに打ち込んでいる姿も見た。

 学園に入れば落ち着くかと思ったが、王太子に気に入られ、その奔放さが直ることはなかった。


 それに比べてロイドはどうだ。多少言葉遣いや所作の洗練さは貴族には劣るが、トリーニヒトに比べればずいぶんとマシだ。アンネリーゼが困り果てていたところにも声を掛けて助けてくれた。

 更に夕食時にはアンネリーゼがこのまま大通りを進み、第3区に行った場合に起こり得る最悪のパターンと、最良でもアンネリーゼにとっては考えられないパターンを教えてくれた。教会に行けば財産は没収され、過酷な修道女の生活も教えてくれた。世間知らずなアンネリーゼは自身がそんなことになるなんて考えたこともなかったのだ。

 アンネリーゼの未来はロイドによって助けられたと言っても過言ではない。

 それだけでアンネリーゼはロイドに惹かれていた。

 吊り橋効果だと言われればそうかもしれない。傷心の女性につけこんでものにする話などいくらでも劇や小説に転がっている。

 問題はつけ込まれた女性が最終的に幸せになれるのか、それとも弄ばれてバッドエンドを迎えるのかだ。

 1日だけだがロイドが好青年であることは見抜けた。

 なにせ貴族社会にいたのだ。相手の仮面の裏が見抜けなくては生き抜けない。そしてロイドは貴族が被る仮面など被っていなかった。純粋な好意でアンネリーゼに声を掛け、上等な客室と食事を金銭も取らずに振る舞ってくれたのだ。使用人たちもしっかりと教育がされていた。

 さすがアンネリーゼですら知っているルーデウス商会である。




「わたくしも働かせて頂けませんか」

「いいけど、商売に関して俺は手を抜かない。厳しいよ?」

「構いませんわ」


 3日ほど客室でお世話になっていたアンネリーゼはそうロイドに訪ねた。

 何しろすることがない。求めれば刺繍のための糸や布などが与えられたし、書斎への出入りも許可された。

 本は高いものだ。商人の書斎があれほど充実しているなどアンネリーゼは考えても見なかった。聞いてみるとロイドが集めた物らしい。

 本にも手を出してみたが、金も払わず何もしないでいるというのは辛い。なにせロイドは宿泊費や食費すら受け取ってくれない。

 そこでアンネリーゼは気合を入れてロイドに手伝いをさせてほしいと言ったのだ。

 それはアンネリーゼとロイドの転機だったと言っても良い。

 なにせロイドはアンネリーゼを推しすぎてどうすればわからず、客室に匿う以外の方法が思いつかなかったからだ。



◇ ◇



「思ったより凄いな」


 ロイドはアンネリーゼの働きぶりをそう評価した。

 ルーデウス商会のお仕着せを着たアンネリーゼも美しい。他の女性店員とは肌の張りや髪の艶が違う。

 アンネリーゼが働き始めてから1週間ほどになる。

 ルーデウス商会の扱う商品は多い。値段も高い物から安い物までバラバラだ。1000点近くの商品数がある。

 しかしアンネリーゼは2日で全て覚えた。値段も含めてである。

 更に2日経つとアンネリーゼは接客も始めた。見て覚えたとは思えない流麗さだ。

 商品の良い所を客に勧め、その美貌も相まって商会の売上がこの1週間で上がったくらいである。

 正直看板娘として立ってくれるだけで十分だと思っていたロイドにとっては良い誤算と言える。

 そして彼女の為に貴族御用達の化粧水や髪につける油などを手に入れようと決めた。あの美しさを損なうのは我慢ならなかったのだ。

 アンネリーゼとロイドは毎夜夕食を共にすることにしている。


「アンネリーゼは商人としても大成できるな」

「そうでしょうか、まだまだ至らない所があると思いますが」

「そんなことはないよ。アンネリーゼの審美眼は確かだし商品の良い所を勧めるのもうまい。僕はそういうところは苦手なんだよね」

「貴族の茶会やパーティなどでは褒める所のないような令嬢や貴族の方と挨拶をすることがありますの。そしてそんな相手でも褒めないという選択肢はありません。どんなところでも何かしら良いところを見つけ出して褒めるのが貴族の社交と言うものです。職人によってしっかりと作られた良い商品の良い所を褒めるなどそれに比べれば造作もないことですわ」

「なるほど、俺たち平民には考えられない世界だな。少なくとも俺は貴族社会では落ちこぼれそうだ」

「ですが商人として成功なさっております。ロイドの店員たちの評判は非常に高いですよ。王都本店を任されているのは家族に信用されているからでしょう。それだけの手腕を持っていなければ信用などされません。ましてや商人の家です。家族の情でライガス王国の王都本店を任せるなどありえません」


 アンネリーゼがあまりにも褒めるのでロイドは照れてしまって即座に返事ができなかった。


「ありがとう。そう言って貰えると嬉しいよ。俺も頑張ってるつもりだけれどなかなか父親や兄貴たちのようにはいかなくてもどかしく思っていたんだ。アンネリーゼにそう言われて少し肩の力が抜けた気がする」

「わたくしは事実を言ったまでですわ。ロイドは優秀な商人で、将来も有望だと思います。伴侶はおりませんの? そろそろ結婚しても良い年齢ではなくて?」

「残念ながら商人稼業が忙しくてそんな相手を作る暇がなかったんだ。上級学園にいる時は何人か恋人は居たんだけどね。ルーデウス商会の後継ぎ候補と見られていたようで後を継がないと言ったら離れていってしまったよ」

「まぁ、なんと見る目のない婦女子でしょう。ロイドを見ればどれだけ優秀かわかるでしょうに」

「成績は良かったけどね。実際に商売が軌道に乗ったのは父や兄の手伝いあってのことで自分だけじゃどうにもならなかったよ。うちはスパルタだからね、子供の頃から躾けられていたけれどやっていくうちにそれでもまだまだ足らない部分が見えてくる」

「貴族だって同じですわ。完璧な貴族などおりません。むしろ家格にあぐらをかいて没落する家や裏稼業に手をだす貴族までいる始末ですわ。翻ってロイドは良い商品を適正な値段で販売し、更に儲けもきちんと出している。商人の鑑ではないでしょうか」


 ロイドは照れた。こんなに真正面から褒められたことがなかったからだ。


「ありがとう。アンネリーゼの言う商人の鑑になれるように努力するよ」


 ロイドはそう言い、アンネリーゼはもう下がって湯浴みにすると良いと促した。



◇ ◇



「うぅぅぅっ、ちょっと言い過ぎたかしら。それにしても伴侶も婚約者もおられないのね。これはわたくしにもチャンスがあると見ても良いのかしら。しかし商人の伴侶、どうすれば良いのでしょう。ロイド様の母上や兄上様のお嫁さんたちも今は店におられませんし、彼女たちがどのような役職についていたり仕事をしているのか全く想像ができません」


 アンネリーゼはベッドに寝転びながらゴロゴロと考え事をしていた。

 働き始めて1週間。最初の2日はどうして良いかわからなかったのでまずは商品とその商品の特徴、値段を覚えることに専念した。

 そして商品の良い所が見えてくれれば勧めることもそう難しくない。

 店員たちが対処できていないお客様に声を掛け、必要な物を聞き出し、合うものがあればおすすめする。それだけのことだ。 

 しかしロイドはアンネリーゼのその能力に驚いていた。

 アンネリーゼは貴族の子女として小さな頃から様々な習い事や勉強を詰め込まれてきた。

 1000点程度の商品など10年分の貴族名鑑の中身を覚えるよりも余程楽なことだ。なにせ名前は書いてあっても肖像画すらないのだ。

 商品が目の前にあり、名前と特徴が書いた紙が商品棚につけられていて、更に値段も書いてある。

 商品については空いている時間に売れ筋の商品やおすすめの商品を店員たちから聞き出し、覚えていった。

量は多かったが、売れ筋やおすすめ程度なら即座に覚えられた。

 アンネリーゼは記憶力には自信があったのだ。 

 あのトリーニヒトの伴侶になると思っていたので、家の事は自身が仕切らねばどうしようもならないと危惧していたという点もある。

 そしてトリーニヒトと比べればロイドの紳士ぶりは遥かに良い。比べる先が悪いとも言えるが、それだけでロイドの株はアンネリーゼの中で上がっていた。


「それにしても働いているロイド様、素敵ですわね。夕食時などに気を抜いて話しかけてくれるロイド様も素敵ですが、働いている姿は格別ですわ」


 ピチッと清潔感のある白い襟付きシャツに黒いベスト。それにウールのハーフグレイのジャケット。濃紺のロングパンツがロイドの仕事中の格好だ。どれもアンネリーゼから見ても良い物に見える。

 仕事中に汚れた時の為に同じ物をいくつも持っているらしい。日によって色が違うがどれもセンスも仕立ても良い物だ。

 そういう慎重さもアンネリーゼには好印象だ。

 アンネリーゼは制服フェチの気があったが本人は気づいていなかった。


「商人の仕事というのはまだよくわかりませんが面白く感じますわ。実際に貨幣に触らせて貰えませんし、帳簿などもあるのでしょう。わたくしなど接客のせの字がなんとかできるようになった程度で商人の仕事の1%も熟せていないでしょう。計算は得意ですし、信用を得たらそういう仕事も任せて頂けるのかしら」


 貴族として過ごしてきた18年間。商人の仕事がどのようなものかなど考えたことがなかった。商人は家に呼びつけて商品を見せて貰い、気に入ったら購入する。そういう相手だったからだ。

 ルーデウス商会や他の大商会にすらアンネリーゼは立ち入ったことはなかった。

 ただ父は領地の経営をしている。そのために大量の帳簿や報告書などの書類に埋もれていた。

 ロイドも大店を任せられているのだ。同様の書類に埋もれていることだろう。だがアンネリーゼの前ではそんな姿は見せない。夕食を一緒に取った後に仕事をしているのだろうか。

 その仕事の1%でも良いのでアンネリーゼは手伝えないだろうか。

 

「だめね」


 アンネリーゼの信用が足らない。フォロイス家でも入ったばかりの掃除しかできないメイドに重要な仕事を任せるはずがない。

 そのくらいは世間知らずのアンネリーゼでもわかる。

 まずは信用を積み重ねることだ。

 未だ金銭に触らせて貰うことすらできていない。金銭のやり取りをする係は主任と呼ばれていてちょっと良い服を着ている。

 それだけ信用のある者なのだろう。




 アンネリーゼが店に居着いて1月が経った。アンネリーゼは店の2階に居たので気付かなかったがドタドタと珍しく1階から足音を立ててロイドを呼ぶ声がした。


「どうした。走るなと言っているだろう」

「そんな場合じゃない、ロイド様。お、お、お貴族様が来た」

「はぁ? 間違いないのか」

「どこのお貴族様かはわからないが家紋を掲げた豪華な馬車だ。間違いない」

「うあ、それは間違いないな。アンネリーゼ、悪いが奥に隠れていてくれないか。どんな貴族か俺も予想できない。アンネリーゼにとって都合の悪い相手かも知れないからね。大丈夫、下級貴族程度なら俺が守るよ」


 そう言われてアンネリーゼは奥の客室に使用人に案内され、見張りのメイドまで置かれ、動くことができなくなってしまった。



◇ ◇



「はぁ、お貴族様か。どこのどいつだ。家紋つきの馬車で乗り付けて来るなんて」


 そう言いながらロイドは店の前に出る。その時にはピシッとした顔つきになっていた。


(おいおい、フォロイス家じゃないか。しかも魔法使いが乗ってるな)


 紋章官ほどではないが主要な貴族の家紋くらいはロイドも覚えている。そして店の前につけられた馬車にはしっかりとフォロイス家の紋章が入っていた。

 しかも4人の騎士が護衛として周囲を守り、中にはかなり強い魔力が最低2つは感じられる。そのうちの1つは護衛の魔法使いだろう。

 それに紋章が正式な物だ。これを使えるのは当主か次期当主しかいないはずだ。


(まぁアンネリーゼは愛されていたみたいだし、そりゃ気になって見にくるよな。ただせめてお忍び用の馬車で来てほしかったな。というか俺の首が明日繋がっていられるか怪しいな)


 周囲の客たちが貴族が現れたということでドン引いている。面倒事はごめんだとさっさと店を去る客もいる。

 その行動は正しい。むしろまだ店の中で商品を選んでいる客は危機感が足らないとしか言いようがない。何か粗相でもしたら不敬罪で叩き切られても文句が言えないのだ。


 馬車の扉が開き、執事のような初老の男が現れる。そして執事の後からはなかなかのナイスミドルが降りてきた。護衛であろう魔法使いは女性で20代後半だ。魔法学園を卒業した証の徽章をつけている。ロイドのなんちゃって魔法では絶対に勝てない相手だ。


「いらっしゃいませ、フォロイス家の方でございますね。私は現在店を任されているルーデウス商会のロイドと申します。ご用向きをお伺いしてもよろしいでしょうか」

「表で話すことではないな。奥で話すことは可能かな」

「もちろんでございます。すぐご案内致します」


 ロイドはフォロイス家の当主と思われるナイスミドルを奥の応接室に案内し、店員たちには営業を続けるように厳命する。2名の騎士と執事、魔法使いが部屋に入ってきたが座ったのはフォロイス卿だけだ。

 ちなみに馬車は目立つので脇道にどかせてもらうようにお願いしている。

 騎士2人が守っている家紋付き馬車を襲うバカは居ない。


「どうぞ、フォロイス様、貴き方をお迎えするには不足かと存じますが、当店で最も良い部屋でございます」

「いや、良い部屋だ。貴族が通されても気を悪くすることなどそうあるまい。これに難癖をつける者は、その性根が捻くれているか最初から文句を言う腹づもりなのだろう」

「過分なお言葉、光栄に存じます」


 実際応接室は貴族の屋敷なども担当している職人に中級貴族の家の応接室並の内装を作ってもらい、調度品も同レベルで揃えている。

 金にあかせて上級貴族並のしつらえにすることもできるがそれは嫌味に過ぎる。商会としてはこのくらいがちょうど良い塩梅なのだ。


「さて、早速用件といこう。うちの娘がルーデウス商会に世話になっているだろう。アレが出ていってからもうちの影の者に護衛させていたが、まさかルーデウス商会が拾うとは思ってもみなかった。まぁおかしなところに拾われるよりはよほど良い。ただルーデウス商会の影は優秀だな、おかげでアンネリーゼが表に出てくるまでどのような扱いを受けているかわからず、やきもきしたものだ。アレが笑顔で接客しているのには驚いたが、少なくとも酷い扱いを受けていないことはそれだけでもわかる。感謝する」

「いえいえ、流石に貴族のお嬢様と一目でわかる方を保護しないわけにはまいりません。見過ごせばどうなるか、容易く想像がつきますからね」

「アレは少々箱入りなところがあってな。王太子殿下の命令であった為に譲らざるを得なかったが、ルーデウス商会に拾われたというのは悪くない。少なくとも下手なこっぱ貴族どもが寄ってくることはなかろう」

「そう願います」


(むしろフォロイス卿が来ること自体予想外だったよ。もっと地味に来いよ。このお貴族様め!)


 ロイドは心の中で悪態を付きながらフォロイス卿の言葉に相槌を打つ。

 正直どこで彼の逆鱗に触れ打首になるのかわからないので、背筋には冷や汗がたっぷりと流れている。

 アンネリーゼには誓って手を出していないが、それを疑われてもおかしくないのだ。しかしフォロイス卿からはそのような話題が出ることはなかった。

 

「国王陛下は王太子殿下のあまりの行状に激怒しておられる。婚約破棄自体も家同士の契約を一方的に破った形だから相手方のトルトーレ家も非常にまずい立場にある。おかしな女に誑かされる男というものはどの時代にもいるものだ。それが娘の婚約者だったというのが笑えないがね。ハッハッハ」


 ロイドは共に笑ってよいのかどうかわからず、冷や汗が頬を伝った。


「ルーデウス商会もロイド殿のことも一通り調べさせて貰った。堅実な商売をしており、ロイド殿は優秀で開発も得意だと言うではないか。更に優秀な影まで揃えている。当家に召し抱えたいくらいだな」

「お褒めに与り恐縮ですが私は商人です。商人以外の道を存じませんし、商人で居たいと思っております」

「良い良い、求めるなら当家で召し抱えることも考えるが本人がイヤであるなら無体な要求はせぬ。なにせ娘の恩人なのだからな」

「寛大なご配慮ありがとうございます。お嬢様の身柄はいかがいたしましょうか。本日お連れになりますか」

「いや、宮廷工作がまだ終わっておらぬ。アンネリーゼの貴族籍は正式には剥奪されておらぬゆえ、アレは未だ当家の娘の地位にある。まずそれを守らねばならぬが、アンネリーゼが手元にいては不都合が生じる。しばらく娘を預かっていて貰えぬだろうか」

「かしこまりました」


 ロイドとしてはそう答えるしかない。連れ帰るにせよ預かるにせよ、伯爵閣下が直接下知されたのである。平民であるロイドが反対できるわけがないのだ。


「アンネリーゼが迷惑を掛けている費えだ。受け取ってくれ」


 そう言って大金貨が200枚は入っているだろう袋がドサリとお互いを阻んでいるテーブルの上に乗せられる。

 ロイドは数えることなどせず、素直に感謝を述べ、アンネリーゼの安全に関しては万全を期すが貴族相手だとどうにもならない可能性も示唆する。

 それに関してはフォロイス卿がなんとかしてくれるらしい。

 頼もしい限りである。……ただし味方である限りは。



◇ ◇



 アンネリーゼが来て3ヶ月が経った。

 もう立派な看板娘である。アンネリーゼ目当ての客すら来る始末だ。

 実際アンネリーゼの物覚えの早さにはロイドも驚かされた。今やどんな商品でもお客様を案内し、おすすめの商品の元へ連れていく。そして売れる確率が他の店員より明らかに高いのだ。

 それに明らかにお忍びに思える貴族のお嬢様方がいらっしゃった。

 どうやらアンネリーゼの御学友だったようで、アンネリーゼとしばらく話した後、アンネリーゼおすすめの、ちょっとお高い貴族向けの装飾品を買ってくれた。


 フォロイス卿からの連絡はない。宮廷工作には時間も金も掛かる。

 ただ今回は国王陛下と王太子殿下も絡んでいる。

 侯爵家と伯爵家の問題もある。そう簡単に解決できる問題ではないのだろう。

 ちなみに主人公はハーレムエンドを目指していたのではなく、単純に未来の剣聖、トリーニヒト一本に絞って落としたようだ。

 故に他の悪役令嬢たちが不幸になる未来はない。彼女たちは学園を卒業したので家同士の話し合いを持って適当な時期に自身たちの婚約者たちと結婚することになる。王太子殿下は今回の失態で婚約者の公爵家令嬢からの評価が落ちているという小話まで聞いてしまった。


 アンネリーゼ自身はルーデウス商会での生活に順応し、楽しんでいるように見える。

 書類仕事などは任せられないが、計算が得意なようなのでレジを任せても良いかも知れない。

 レジを任せていた女性の1人が妊娠が分かり、一時休暇を与えたばかりで人が少し足らないのだ。


 それをアンネリーゼに伝えると本人はとても喜んでいた。なぜ喜んでいるのかはわからないが、笑顔が見られただけでロイドは幸せだ。

 アンネリーゼは即座にレジを覚え、レジ締めをしても1銅貨の間違いもなかった。

 全ての商品の値段を覚え、計算も間違いがない。更に見目の良さと優美な所作にファンがついている。有能すぎる彼女がいなくなったらルーデウス商会の売上は確実に下がることだろう。

 これは贔屓目ではなく、去年の同時期と比べて店舗の売上が2割ほど上がっている。そのうちのいくらかはアンネリーゼの存在に依っているに違いない。

本来冬場は寒いので客足が遠くなる時期なのだ。


 春になると新成人たちが街に溢れかえる。と、言っても高級住宅と高級商店しかない2区はそれほどでもない。

 ただ若い男たちはアンネリーゼを目的にルーデウス商会に足を運んでいるようで、例年より明らかに男性比率が多い。

 彼らはすでに接客に慣れたアンネリーゼにころころと転がされ、多少高い商品でもほぼ確実に購入していく。

 ロイドではこうは行かなかっただろう。向き不向きというのもあるだろうが、アンネリーゼが優秀すぎるのだ。貴族令嬢には勿体ないと商人目線でロイドは思ってしまった。


「ロイドには1季節もお世話になってしまいました。何かお礼がしたいと思います。何かありませんか」


 アンネリーゼに急にそんなことを言われてしまった。

 アンネリーゼの滞在費はフォロイス卿に出して貰ってまだまだ余っているので正直アンネリーゼにしてもらいたいことなどない。

 下心を言って良いのであれば膝枕をしてほしいとかはあるが、そんなことを言えば首と胴が離れかねない。

 どこでフォロイス家の影に見られているかわからないからだ。

 ディナー室や応接室は木戸で中が見えないようになっているが、魔法使いが〈透視〉などで監視していたらルーデウス商会ではどうにもならない。

 なにせ結界などを張らないとそういうのは防げないのだ。そしてそんな高価な魔道具はルーデウス商会ですら設置していない。一時的な結界ならともかく永続的な結界を張る魔道具は運用コストが掛かりすぎるのだ。


「あ~、魔法を勉強したかったってのはあるな。僕は商会の子が通う上級学園に通ったんだけど魔法学院に通いたかったって言う気持ちもあるんだよね」


 ロイドは軽い気持ちでそう言った。しかしアンネリーゼはそう受け止めなかったようだ。


「ロイド、裏庭に出ませんか」

「構わないけれど」


 ニンジャ部隊に警戒はさせている。今のところおかしな侵入者はいない。

 2人で裏庭に出るとアンネリーゼがパンパンと2回拍手をした。

 それだけで1人の男が裏庭に現れた。当然ニンジャたちが剣を手に男を囲んでいるが男はピクリとも動かず、アンネリーゼを見つめている。


「やっぱりいましたね。フォロイス家の影の者です。ロイド様が魔導書をお望みです。中級までの魔導書をお持ちくださいな」

「かしこまりました」

「おいおい、本気か」

「ロイドが学びたいと言ったのではないですか」

「おい、頼むから家紋入りの馬車でなんか乗り付けてくるなよ。お忍び用の馬車で持って来るんだ」

「そのくらいわかっている」


 影の男はそれだけ言うとさっさと姿を隠してしまった。

 ダーカスが申し訳無さそうに言うが商会が雇っているニンジャと大貴族が持つ影とではレベルが違う。

 実際ロイドは男がいつ目の前に現れたのか、消えたのかもわからなかった。

 そして翌日には初級、中級の魔導書が届いた。


 これの何が凄いかと言うと魔導書というのは所持が許可制なことだ。

 魔法学院を卒業し、国家資格を取るか貴族である者にしか所持が許可されない。許可をするのは国王陛下本人だ。

 魔法というのは国家の戦略に関わる根幹の1つだ。そう簡単に市井の者が学べるわけがない。

 ロイドは魔力だけはあったが商人として生きると決めていたので魔法学院への進学は諦めた。魔法学院の倍率の高さも酷い物なので諦めなくても受かったかどうかもわからない。本気で数年は魔法使いの家庭教師をつけて勉強して受かるかどうかと言う所だろう。

 そんな魔導書が夕食の軽口で20冊以上目の前に存在する。

 信じられなかった。

 だが現実だ。これらを読めばロイドも魔法を使える……ようになるかもしれない。読んだだけで魔法が使えるわけではないのだ。

 しかし異世界に転生したのだから魔法を使いたいという欲望には逆らえなかった。

 諦めるしかなかった魔法学院はともかく、今は魔導書が目の前にあるのだ。

 ロイドはその日の予定を全部キャンセルして魔導書を読むことに決め、アンネリーゼはロイドがそれほど喜んでくれたことに嬉しく思っていた。



◇ ◇




「うふふっ、ロイドったら目の色変えて魔導書にかぶりついていたわ。お礼になったかしら」


 アンネリーゼは魔導書がロイドにとってそれほど価値あるものだとは思っていなかった。

 なにせフォロイス家の図書室には当然のように魔導書が並んでいたからだ。

 市井の者たちが魔法を学ぶハードルの高さに全く気づいていなかった。

 そしてアンネリーゼは魔法をそれなりに使いこなすことができる。

 魔法学院には通っていないが貴族学園でも魔法の授業があるのだ。

 貴族たるもの最低限の護身ができなければならない。男子女子に関わらずだ。そして魔法は使えるようになれば杖と呪文だけで発動する。男子のように剣や槍を振り回す女子もいないことはないが、ほとんどの女子は魔法を選択する。

 故にこれから夕食後、ロイドにアンネリーゼは魔法を教えてあげようと思った。

 これでも貴族学園の魔法の授業ではかなり優秀な成績を取っていたのだ。

 魔法士の資格を取って国で働かないかとスカウトされるくらいには。




「この魔法はまず魔術陣から覚えると良いですよ。魔術陣に魔力を通すと自身の魔力の動きや流れがわかりやすくなります。それを覚えて魔術陣なしで同じように魔力を動かし、性質を変換し魔法とするのです」

「わかった、やってみる」


 ロイドは生活魔法くらいは使いこなすことができたので、初級の魔法も案外覚えが良かった。

 中級の魔法になるとそれなりに難易度が高くなるし攻撃力も高くなる。

 アンネリーゼは結界を張って庭師が整えている裏庭が酷いことにならないように気をつけた。


「ロイドは筋が良いですね。魔法学院に行った方が良かったんじゃないですか。魔法士の資格くらいなら取れたと思いますよ」

「魔法士も憧れるけれど戦争や魔物と戦うのが義務だからな。運動はそれほど得意じゃないんだ。守ってくれる騎士や兵士たちがやられたら死んでしまう。流石にそれはな。それに商会の仕事も楽しくやっている。魔法は趣味でいいな」

「ふふっ、趣味で魔法だなんてまるで貴族のようですね。貴族も魔法を嗜みますが余程のことがなければ戦場にも魔物退治にも出向きません。趣味のようなものですよ」


 夕食の後の時間、ロイドは睡眠時間を削ってでも魔法の練習に明け暮れた。

 そしてアンネリーゼが驚くほど早く初級魔法を習得し、中級魔法すら一部発動できるようになってしまったのだ。

 更に治癒魔法の素質があったらしく、中級の治癒魔法を覚えてしまった。

 中級の治癒魔法が使えれば市井で治癒院を開いても軍などに入っても重宝される。当然騎士などが護衛につくし後衛なので危険もない。さらに教会などにも狙われるだろう。


(これは秘密にしておいた方が良さそうですね)


 国では中級以上の治癒魔法の使い手が不足しており、常に人手を求めている。

 アンネリーゼもまさかロイドが治癒魔法の素質を持ち、覚えてしまうとは思わなかった。

 魔法学院に通っていたら必ず軍や騎士団に務めるように命令が出ただろう。平民のロイドにそれを断る術はない。

 商会の仕事は大変そうだが楽しそうにしているロイドを見ていれば、軍に彼を縛り付けたいとは思わない。


(でも念の為に上級の治癒魔法と解毒魔法なんかも覚えられるかどうか試した方が良いかしら。ご家族が怪我した時とか毒を盛られた時に即座に対応できるものね)


 ルーデウス商会は大商会だけあって敵も多い。

 直接襲撃される場面に出くわしたことはないが、それはニンジャたちが間引いているかららしい。

 フォロイス家の影ほどではないが、ニンジャたちも優秀なのだ。

 アンネリーゼも商会に諜報部隊が居るとは思っても見なかった。それもロイドが作ったと聞いて驚いたものだ。


 数カ月後、ロイドは上級の治癒魔法と結界魔法、それに解毒魔法各種を覚えた。攻撃魔法も適正のあった属性の物を覚えた。アンネリーゼはロイドが自身より遥かに優れた魔法使いであることに驚きを隠せなかった。

 幼い頃から鍛えれば宮廷魔導士にすらなれただろう。



◇ ◇



 アンネリーゼが商会に匿われて1年近くが経った。

 冬になり、雪がちらついている。

 アンネリーゼは最初うつろな目で足元もおぼつかない様子だったが、ルーデウス商会に匿われ、店員をやるようになってからは楽しそうに暮らしている。

 ロイドとしては推しが幸せであればそれで良い。

 このまま時が止まってしまえば良いのにと思わなくもない。

 しかし世の中そんな甘くはない。時間は誰にでも平等に過ぎており、ロイドの知らない所で様々なことが決まってしまっていた。




「フォロイス卿。本日はいかがなさいましたか」


 約1年ぶりくらいのフォロイス家の馬車がルーデウス商会の前に停められているのを見てロイドはクラリと倒れそうになった。

 宮廷工作が終わったのだろうか。とするとアンネリーゼと過ごす日は今日で終わりかも知れない。

 しかしそれが正しいのだ。アンネリーゼは貴族のお嬢様である。平民であるロイドの手の届く女性ではない。実際魔法を教えて貰う時など必要な時以外ロイドとアンネリーゼの接触はない。


 相変わらずの家紋入りの豪華な馬車だ。御者の他に4人の完全武装の騎士もついているし、魔法使いの護衛も共にいる。

 馬車から降りるとき、フォロイス卿と魔法使いが驚いたような表情をした。何か失礼なことをしてしまっただろうか。

 だが彼らは貴族の仮面にそれらを隠すと、ロイドは以前のように奥の応接室に通す。

 今回はアンネリーゼも同席させることにした。彼女の去就に関する話もあるだろうし、家族との再会もしたいだろう。むしろ前回会わせなかったのは失態と言える。


「ロイド殿、アンネリーゼを約1年に渡り匿ってくれて感謝する」


 フォロイス卿が頭を下げた。まさか貴族が頭を下げるとは思っても見なかったのでロイドは慌てて頭を上げてくれと頼んだ。


「当然のことをしたまでです。それに滞在費はすでに頂いておりますしアンネリーゼ様が店に出ることで売上も上がっております。当商会に損はありません。恐れていた襲撃もそれほどありませんでしたしね」

「いくつかはうちの影で潰しておいた。規模が大きかったのでな」

「左様でございましたか。お手を煩わせてしまい申し訳ございません」


(全部潰してくれて良かったんだよ)


 そう思いながらもロイドは頭を下げる。


「アンネリーゼ、久しいな。息災か」

「えぇ、ロイドさんが良くしてくれていますので元気にしておりますわ。家族と会えないのは寂しいですがルーデウス商会の皆様も良くしてくれております」


(そりゃ貴族のお嬢様丸出しだからみんなよくせざるを得ないんだよ。最初はみんなビクビクだったぞ)


 もちろん声には出さない。


「それでだな、宮廷内での話は全て終わった。アンネリーゼ、そなたの貴族籍剥奪はなくなり、当家からの追放処分もなしとなった。むしろそんなことを勝手に決めた王太子殿下と急に婚約を破棄したトルトーレ侯爵家に罰則が与えられたくらいだ」

「まぁ、そんなことになっていたのですね。存じませんでした」

「方々に多少の借りは作ったがな、まぁそれは良い。アンネリーゼ、そなたはこれからどうしたい。そなたは自由だ。家に帰るもよし、ここに残るもよしだ」

「え?」


 ロイドはあまりの選択肢につい声を出してしまった。アンネリーゼが帰れるのなら帰るのが一番良いのではないのだろうか。むしろそれ以外に選択肢はないように思える。


「家には帰って家族の顔を見たいと思いますがロイドさんの傍に居たいと存じます。それは許されることでしょうか?」

「そう難しいことではない。ロイド殿の意思次第でもあるが寄り子の子爵あたりの養子にし、婿に取れば良いのだ。フォロイス家の分家として歓迎しよう」

「え、え?」


 ロイドは話の早さについていけなかった。彼らは何を話しあっているのだろう。


「噛み砕いて言うとだ、アンネリーゼはロイド殿に惚れている。父親として見ていればそのくらい即座にわかる。それにもう年も年だ。結婚していて然るべきで、そろそろ行き遅れと言われてしまう頃合いだ。それに、あんなに派手に婚約破棄され、王太子殿下に一度とは言え平民になれと言われた娘だ。今更婚約者が現れるとも思えぬし、現れたらそれはフォロイス家の財産目当てだ。だがロイド殿なら別だ。フォロイス家の財産を頼むほど金に困っていないだろう。むしろ1人で我が領の税収の8分の1を稼いでいると知って目を疑ったぞ。なに、姓にフォロイスと付くだけで特に強制することはない。これまで通り商会を営み、アンネリーゼを嫁に迎えてくれれば良いだけだ。簡単な話だろう。外聞的にも大商会とは言え平民の家に1年間も寝泊まりしていたのだ。とっくにアンネリーゼはロイド殿の女にされていると見られている。実態はどうあれ、な」


 ロイドはアンネリーゼ推しであるし彼女を愛しているがそんな可能性は存在しないと思っていたし、手を出せば首と胴が離れると思っていたので適切な距離を取っていた。

 しかし、ロイドの知らない所でいつの間にかロイドとアンネリーゼが結ばれる未来が出現していたどころか、既にほぼ決定事項である。

 なにせフォロイス卿がそう言っているのだ。平民のロイドにとっては命令に近い。

 だが今回の命令はロイドにとって歓迎すべきものだった。

 爵位などという余計な物がついてくるが、アンネリーゼという最推しと共に人生を歩めるのだ。

 それ以上幸せなことがあるだろうか、いや、ない。

 むしろアンネリーゼが連れ去られ、おかしな貴族に嫁がされると聞かされたらロイドは真っ白な灰になってしまうだろう。もしくは教わった上級の魔法をその貴族の家に撃ち込んでいたかもしれない。


「か、かしこまりました。フォロイス卿の仰せ通りに致します」

「ハハハッ、これからは親子の関係になるのだ。そうかしこまらなくても良い。ロバートと呼んでくれても良いのだぞ」

「平民の感覚はそう簡単に抜けないものです。ご勘弁を」

「はははっ、アンネリーゼ、こんな男だが本当に良いのか。まぁお前の顔を見れば惚れているのは一目瞭然だがな」

「もちろんですお父様。ロイドさんほど良い男はそれほどいませんよ」


 ロイドはいつアンネリーゼに惚れられたのか全く覚えがなかった。

 ロイドが惚れたのは最初にあった瞬間からだろう。

 たとえライガスの楽園のアンネリーゼでなくとも外見だけでもドストライクだったのだ。そして1年間一緒にいてその性格にも惚れている。


「ロイドさん、これからも末永く宜しくお願いしますね。わたくしの王子様」

「は、はい。幸せにするように努力するよ。アンネリーゼ」

「ふふふっ、早く慣れてくださいね。おそらく結婚は今年の春か遅くても夏ですよ」

「えっ、早くない!?」

「そうでもしないとまた宮廷雀がうるさく言ってくる。こういうのはさっさと済ませてしまった方が良い」


 フォロイス卿が言うのだから間違いないのだろう。

 なにせ格上の侯爵家や王太子殿下に対してアンネリーゼの去就を翻させた人物だ。

 宮廷内でも相当の実力を持っているのだろう。

 間違っても逆らうことなどできない。


「では我らは去らせて貰おう。まだまだやることがあるのでな。アンネリーゼ。今度馬車を寄越すから一度家に顔を見せなさい。皆待っているぞ」

「わかりました。私も楽しみにしていますね」


 そう言うとフォロイス卿はザッと立ち上がり帰っていった。嵐のようだとロイドは思った。


「ねぇ、ロイド。いえ、旦那様」

「え、気が早くない?」

「もう婚約したようなもので数カ月後には夫婦ですよ。早くありません」

「そ、そうだね。そうだったね」


 ロイドの頭の中はまだぐるぐるしたままだ。急な事態にフリーズする癖はなかなか治らない。


「もう、旦那様ってば。ほら、こちらを向いてください」

「ん? はい」


 ちゅっ


 ロイドの唇に柔らかい感触が当たる。

 それが何かは一瞬わからなかったが、アンネリーゼの唇であったことは明白であった。

 顔を耳が真っ赤になるのがわかる。

 おかしい。初めてでもあるまいになんでこんなにドキドキするんだ。これが最推しの威力か。


 ロイドはただの口づけで鼓動が倍くらいに早くなったことを感じ、幸せと同時にアンネリーゼとの夫婦生活は大丈夫かどうか不安になった。


「大丈夫ですよ、わたくしたちは無敵ですから。ルーデウス商会を王都一の商会に致しましょう。フォロイス家が後ろ盾に付くんですからそう難しい話じゃありませんよ」

「そうか、フォロイス家が後ろ盾になるのか」

「それに、フォロイス家の分家になればロイドは貴族の一員です。将来的にルーデウス商会の会頭はロイドになるでしょう。それがイヤならロイド商会を新たに立ち上げるしかありませんよ」


 アンネリーゼがソファの横に座り、腕を組んでくる。

 今まではなかったスキンシップに更に鼓動が早くなる。

 そして兄たちよりも地位が高くなってしまったことにより、ルーデウス商会はロイドの物になる可能性が高くなってしまった。ロイドはそれは望んでいない。父や兄のことは好きなのだ。となるとロイド商会を立ち上げるのが最も穏便なやり方だ。商売敵にならないよう商品を選ばなければならない。頭の中で高速でやることをリストアップし、ロイドは少し頭が痛くなった。どう考えても数年は落ち着いた生活ができるとは思えない。

 しかし隣にアンネリーゼが居てくれるならそのくらいの苦難は軽く飛び越えられるような気さえしてくるから不思議だ。


「幸せになりましょうね、旦那様?」

「うん、わかった。俺も幸せになるしアンネリーゼも幸せにする。誓うよ」

「嬉しいです」


 アンネリーゼは花が開いたような笑顔でそう言ってまたキスしてきた。

 ロイドはアンネリーゼの体を抱きしめ、アンネリーゼと自身の物語がめでたしめでたしで終わるように努力しようと心に決めた。


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最推しの悪役?令嬢を拾った 柊 凪 @nagi_yomi

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