第4話 終わらぬ影

怪物が霧の中へと消えていったあと、私たちはしばらくその場に立ち尽くしていた。月明かりが廃墟となったフランケンシュタインの屋敷を照らし、静寂だけが支配していた。あの怪物が再び現れるのではないかという恐怖と、彼の背中に宿った孤独への同情が、私の心を複雑にした。


「ホームズ、これで終わりなのか?」私は静かに尋ねた。


彼は短く溜息をつきながら、屋敷の崩れた壁を見つめて答えた。「いや、ワトソン。この事件はまだ終わっていない。怪物は確かに去ったが、彼が本当に平穏を見つけるとは限らない。さらに問題なのは、シュタイナー博士だ。」


その名を聞いた瞬間、私は地面に横たわった博士の姿に目をやった。シュタイナー博士はまだ気絶しているようだったが、その胸は微かに上下しており、命を取り留めているようだった。


「彼をどうするつもりだ?」私は再び尋ねた。


ホームズは冷静な目で博士を見下ろした。「彼を法の裁きに委ねる必要がある。だが、その前に、彼の研究を完全に破壊しなければならない。この狂気が再び目を覚ますことがあってはならない。」


私たちはシュタイナー博士を縛り上げ、安全な場所に移動させた後、再び屋敷の地下室に戻った。そこには、フランケンシュタイン博士から受け継がれた実験器具や書物が、今もなお整然と並んでいた。


「これを全て燃やすつもりか?」私は尋ねた。


「その通りだ、ワトソン。」ホームズは一冊の古い本を手に取りながら答えた。「この研究は、人類にとってあまりにも危険だ。もし再び誰かがこれを手にしたら、同じ悲劇が繰り返されるだろう。」


私は頷き、彼に協力することにした。私たちは地下室にある書物や装置をまとめ、燃えやすいものを集めて一か所に積み上げた。そして、ホームズが持っていた火種を使い、その全てに火を放った。


火は瞬く間に広がり、地下室全体を明るく照らした。赤々と燃える炎を見つめながら、私は一つの時代が終わるのを感じていた。


「これで、全てが終わったのかもしれない。」私は小さな声で呟いた。


しかし、ホームズは首を横に振った。「いや、ワトソン。終わりではない。怪物がまだこの世に存在する限り、この問題は続いていく。そして、シュタイナー博士のような人間が再び現れる可能性も否定できない。」


その言葉には、どこか達観した響きがあった。ホームズの視線は、燃え盛る炎を越えてどこか遠くを見つめているようだった。


火が落ち着き、私たちは屋敷を後にした。夜が明け始め、霧が少しずつ晴れていく中で、私はふと疑問を口にした。


「ホームズ、あの怪物はどこへ行ったのだろうか?」


彼は少し間を置いて答えた。「それは誰にもわからない。だが、彼が自分の存在理由を見つける旅に出たのならば、我々が追うべきではない。彼はただ、自分の場所を見つけようとしているだけかもしれない。」


その言葉を聞いて、私は複雑な思いに駆られた。あの怪物が、自分の存在理由を見つけることができるのだろうか。それとも、彼は永遠に孤独の中を彷徨い続けるのだろうか。


私たちは村に戻り、シュタイナー博士を地元の警察に引き渡した。彼の犯した罪の大きさは計り知れず、これから彼が法の裁きを受けることになるだろう。しかし、それで全てが終わるわけではなかった。


村の人々は、私たちが怪物を倒したのだと信じたが、ホームズはその噂を否定しようとしなかった。「彼らが安心できるなら、それでいい」と彼は静かに言った。


数日後、私たちはスイスの村を離れる準備をしていた。私はふと、ホームズが一冊のノートを手にしているのに気づいた。それは、地下室で燃やしたはずのフランケンシュタイン博士の研究記録だった。


「ホームズ、それは……?」私は驚いて尋ねた。


「安心しろ、ワトソン。」彼は冷静に答えた。「これは記録の一部だが、怪物を作り出す技術に関するものではない。この事件の真相を記録し、未来に役立てるために持ち帰るだけだ。」


その言葉を聞いて、私は少しだけ胸をなでおろした。しかし、同時に、この記録がまた新たな問題を引き起こすのではないかという不安も拭えなかった。


汽車に乗り込み、村を後にする際、私は最後に一度だけ振り返った。遠くに見えるフランケンシュタインの屋敷は、まだ煙を上げていたが、それも徐々に消えつつあった。あの場所で起きた全ての出来事が、夢のように思えた。


「ホームズ、我々はあの怪物を解放してしまったのだろうか?」私は再び尋ねた。


ホームズは答えず、ただ窓の外を見つめていた。その目には、どこか安堵と不安が入り混じった複雑な感情が浮かんでいた。


スイスの村を離れてから数日が経った。汽車の揺れが心地よい眠気を誘いながらも、私の頭の中には未だにあの怪物の姿が浮かんでいた。彼の悲しげな背中、そしてその目に宿った深い孤独。事件が解決したと信じたい気持ちと、どこかでまだ続きがあるのではないかという不安が、私の胸を締めつけていた。


ホームズは私の向かいの席で静かに座っていた。いつものように窓の外を見つめ、その鋭い目で何かを考えている。彼の手には、あのフランケンシュタイン博士の研究記録があった。それを持ち帰ることが正しいのか、私には判断がつかなかった。


「ホームズ、本当にこれで良かったのだろうか?」私は思わず問いかけた。


彼は一瞬私に視線を向けたが、すぐにまた記録に目を落とした。「良かったかどうかはわからない、ワトソン。しかし、この記録を持ち帰ることで、我々が再び同じ過ちを繰り返さないための手がかりを得ることができるはずだ。」


「だが、それがまた別の危険を生むのではないか?」


彼は静かに本を閉じ、小さなため息をついた。「その可能性もある。しかし、真実を知らずに未来を守ることはできない。これは、そのための責任だ。」


その言葉には、彼自身の迷いも感じられた。それでも、彼は自らの使命を全うしようとしているのだろう。


汽車が大きく揺れたとき、不意に窓の外に何かが動くのを私は見た。黒い影が、私たちの乗る汽車と平行に走っているように思えた。


「ホームズ、外を見てくれ!」私は思わず声を上げた。


彼も窓の外に目をやり、しばらく何かをじっと見つめていた。そして、彼の表情が僅かに変わったのを私は見逃さなかった。


「……確かに、何かがいる。」ホームズは低い声で言った。「だが、それが我々の目指す場所と関係しているかはまだわからない。」


「まさか、怪物が我々を追ってきたのでは……?」私は恐怖に駆られて言った。


「可能性は低いが、完全に否定はできない。」ホームズは慎重に答えた。「ただの影かもしれないし、偶然の出来事かもしれない。しかし、気を抜くべきではない。」


私は背筋に寒気を感じながら、窓の外を見つめ続けた。その影は、次第に汽車のスピードから遅れるように見えたが、私の不安は消えなかった。


ロンドンに戻ると、ホームズはすぐに記録の分析に取り掛かった。ベイカー街の静かな部屋の中で、彼はその分厚い本を広げ、一つひとつのページを注意深く読み進めていた。その姿はいつものように冷静で、まるで彼が直面しているものがあの怪物の恐怖ではないかのようだった。


「ワトソン、この記録には興味深い事実が隠されている。」ホームズが顔を上げた。「フランケンシュタイン博士の研究には、もう一人の協力者がいたようだ。」


「協力者?」私は驚きの声を上げた。


「そうだ。彼の名前は記されていないが、記録の中に彼がいくつかの重要な技術を提供していたことが書かれている。さらに興味深いのは、その協力者がフランケンシュタイン博士の死後も研究を続けていた形跡があることだ。」


私はホームズの言葉にぞっとした。「それでは、我々がスイスで直面したシュタイナー博士以外にも、研究を引き継いだ者がいるということか?」


「その可能性が高い。」ホームズは頷いた。「そして、彼は現在もどこかでこの研究を進めているかもしれない。」


その言葉を聞いた瞬間、私は再びスイスでの出来事を思い出した。あの怪物の背後に潜むさらなる影――それが再び私たちの前に立ちはだかるのではないかという不安が、胸の奥に広がった。


「ホームズ、次はどうするつもりだ?」私は意を決して尋ねた。


「次は、この協力者の足取りを追う。」彼は即座に答えた。「この記録を手掛かりに、彼がどこで何をしているのかを突き止める必要がある。」


「だが、それはまた新たな危険を生むのではないか?」


「危険を恐れていては真実にたどり着けない、ワトソン。我々の役目は、未知の恐怖に立ち向かい、その真実を解明することだ。」彼の目は揺るぎなかった。


その夜、私はベイカー街の部屋で不安な眠りについた。夢の中で、再びあの怪物が現れた。彼の目は私を見つめ、何かを訴えかけているようだった。しかし、私は彼の言葉を理解することができなかった。ただ一つ確かなのは、彼がまだどこかで私たちを見守っているということだった。


目を覚ますと、窓の外には静かなロンドンの夜景が広がっていた。私は深呼吸をして気持ちを落ち着けようとしたが、心の奥底に宿った不安は消えなかった。


翌朝、ロンドンは灰色の雲に覆われ、街全体が重苦しい空気に包まれていた。ベイカー街221Bの室内では、ホームズがフランケンシュタイン博士の記録に熱心に目を通していた。彼は時折ページの間に挟まれたメモや図面を取り出し、机に広げては深く考え込んでいた。


「ワトソン、これを見てくれ。」彼は手元の図面を指さした。


私は近づき、その図面に目を凝らした。それはフランケンシュタイン博士が使った装置の設計図のようだった。だが、その隅に書かれた文字が、私の目を引いた。


「ホームズ、これは……」私は驚きの声を上げた。


「そうだ、ワトソン。」ホームズは静かに頷いた。「この設計図には、フランケンシュタイン博士以外の手が加えられている。ここに記された技術的な注釈は、博士の筆跡とは明らかに異なる。そして、この記録には頻繁に『J.S.』というイニシャルが登場する。」


「J.S.……それが協力者の名前なのか?」


「その可能性が高い。」ホームズは目を細めた。「この人物はフランケンシュタイン博士に技術的な助言を与え、彼の実験を成功に導く重要な役割を果たしていた。そして、おそらく博士の死後も研究を続けていた。」


ホームズはさらに記録を調べ、手掛かりを整理していった。私はその間、記録に記された内容を目にしながら、再びあの怪物の姿を思い出していた。彼を生み出した狂気的な科学の痕跡が、いまだにこの記録の中に息づいているように思えた。


「ワトソン、このJ.S.がどこにいるのかを突き止める必要がある。」ホームズは立ち上がり、部屋を歩き回り始めた。「そして、そのためには彼がフランケンシュタイン博士と関わった背景をさらに詳しく調べなければならない。」


「だが、どこから手をつけるつもりだ?フランケンシュタイン博士は既に故人だし、彼の研究を知る者もほとんどいないだろう。」


「そうでもない。」ホームズは微笑んだ。「幸運なことに、この記録にはJ.S.がスイスのジュネーヴに拠点を構えていた痕跡が記されている。そして彼は、ある時期から英国にも頻繁に出入りしていたらしい。」


「英国に?」私は驚いた。


「そうだ、ワトソン。」ホームズは帽子を取り上げ、コートを羽織りながら言った。「まずはジュネーヴで彼の痕跡を辿る。その後、彼がどのように英国に関わったのかを解明するつもりだ。」


「ジュネーヴに戻るのか……」私は溜息をつきながら彼に続いた。「また新たな冒険が始まるわけだな。」


数日後、私たちは再びスイスの地に降り立っていた。ジュネーヴは冬の寒さに包まれ、湖面には冷たい風が吹き付けていた。この街には、フランケンシュタイン博士の研究が始まった場所としての歴史が染み込んでいるようだった。


ホームズは早速、記録に記された手掛かりを基に調査を始めた。私たちは古い図書館や役所を訪れ、J.S.という人物の痕跡を探した。そして、ついに一つの名前に行き着いた。


「ジェレミー・スコット。」ホームズは役所の古い記録を指さしながら言った。「彼はフランケンシュタイン博士と同時期にこの地で研究を行っていた科学者だ。」


「ジェレミー・スコット……彼がJ.S.なのか?」私はその名前を繰り返した。


「その可能性は高い。」ホームズは頷いた。「さらに興味深いのは、彼がこの数年間、英国とスイスを頻繁に行き来していたという事実だ。記録によれば、彼は最近、英国の田舎町にある屋敷を購入している。」


「英国に戻る必要がありそうだな。」私は彼の言葉に同意した。


再び英国に戻った私たちは、ジェレミー・スコットが購入したという屋敷のある田舎町に向かった。そこは静かな村で、霧が立ち込める丘陵地帯にひっそりと佇む場所だった。


「ここに彼がいるのだろうか?」私は不安げに尋ねた。


「それを確かめるのが我々の仕事だ、ワトソン。」ホームズは毅然とした声で答えた。


屋敷に近づくにつれ、不気味な静けさが私たちを包んだ。その建物は古びており、まるで長い間放置されていたかのようだった。しかし、窓にはかすかな光が漏れていた。


「彼が中にいる可能性が高い。」ホームズは囁いた。


私たちは慎重に屋敷の入り口に近づき、そっと扉を押した。扉は軋む音を立てながら開き、中には暗い廊下が広がっていた。その先から、何か低い機械音が聞こえてきた。


「ホームズ、この音は……」私は声を震わせながら言った。


「実験だ。」ホームズは短く答えた。「彼が何をしているのかを突き止める必要がある。」


廊下を進むと、奥の部屋に光が漏れているのが見えた。私は心臓が早鐘のように鳴るのを感じながら、ホームズの後ろに続いた。そして、扉を開けた瞬間、私は目の前の光景に言葉を失った。


そこには、フランケンシュタイン博士の実験を思わせる装置が並んでいた。そして、その中央には、新たな怪物と思われる巨大な人型のシルエットが横たわっていた。


「彼はまだ研究を続けている……」ホームズは静かに呟いた。


その時、部屋の奥から声が響いた。「ようこそ、シャーロック・ホームズ。」


暗闇の中から現れたのは、一人の男だった。彼の目は冷たく光り、その口元には不気味な笑みが浮かんでいた。


「ジェレミー・スコットか。」ホームズは冷静に問いかけた。


男はゆっくりと頷いた。「その通り。そして、君がここに来るのを待っていたよ。」


読者の皆様へ


「フランケンシュタインの遺産」第4話をお読みいただき、ありがとうございます。作品を楽しんでいただけたでしょうか?


ぜひ、皆様の評価レビューや応援コメントをお聞かせください!ご感想やご意見は、今後の作品作りの大きな励みとなります。


次回は、2024年12月1日(土)投稿です!


皆様に楽しんでいただける物語をお届けできるよう頑張りますので、応援よろしくお願いいたします!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る