僕がいる

 最後の模試の結果が返された日。俺は、結果を見て愕然としてしまった。

「あー……これは厳しいね」

 ヤギちゃんはいつも通り、遠慮なしに言う。

「今回は皆できてないだろ」

 村瀬は自分のA判定を見せながら励ましてくれる。

「でも、分からなかったところとか、あやふやなところを潰していけば合格が見えないわけじゃないよ。実際に、俺の調査でも、直前の模試がC判で合格した人もいるし……」

 俺が途中から話を聞いていないことに気付いて、だひーは口を止めた。

 そう、俺は最後の模試にて第一志望大学の判定でCを取ってしまったのだ。これじゃ現役の時とどっこいどっこいじゃないか? どうしよう。どうしよう。


 自分のせいで重くなる空気に気を使えないほど俺は混乱していた。俺以外の三人がA判定なのだから尚更。

「この時期に落ち込んでてもしょうがない。今まで通りやるしかないよ。分からないところがあったら、いつでも聞きに来てよ。私が分かるとこなら教えられるから」

「うん。俺たちがついてるよ。元気出してー」

「とりあえず、復習すべきは数学だね」

 三者三様で励ましてくれるけど今はそれどころじゃない。焦りに身を浸して、余計に焦る自分を味わう地獄から抜け出せない。無理に元気をひねり出したって、そんなのすぐに燃え散るカスにしかならない。誰の声も、どんな名言も、俺とは別の世界にあるみたいだ。今、世界は俺一人だ。寒い。いやだ。嫌いだ。


 ああ、光樹に会いたい。


 そう思うと耐えられなかった。心配する三人に「帰る」と言って席を立った。リュックを背負って外に飛び出す。寒い空気が肺に流れ込む。痛い。でも気持ちいい。冬の空はなぜこんなにも綺麗に晴れているんだろう。俺の心は晴れないのに。なぜこんなにも青いんだろう。レイリー散乱だろう。知っている。




「はあ、はあ」

 いつもの河川敷に着いたら、膝に手をついて下を向いてしまった。茶色の地面が視界の中で歪んでいく。ふと、体験したことがあるような感覚に襲われる。そういえば、似たような経験を前にもした。あの時は、そうだ。桜の花びらが視界に入って、それで――


 頭を上げると、そこに光樹がいた。


「ヒロ。大丈夫?」

「何でここにいんの? 学校は?」

「僕がここにいると思って来たんでしょ? ヒロが僕に会いたいと思えば、僕はいつでもヒロのそばにいるよ」

「わけ……分っかんない。うぅ」

 俺は光樹の肩にもたれて泣いた。こんなに誰かの前で泣いたことなんてない。親の前でも、友達の前でも。

 光樹はずっと俺の頭を撫でながら、俺が落ち着くのを待っていてくれた。光樹の服は冷たかったけど、手のひらと匂いからは温かさを感じた。


「何があったか話してくれる?」

 俺は順番も、主体と客体もぐちゃぐちゃに話した。ほとんど感情的で、普通の人が聞いたら何を言っているのか分からなかったと思う。光樹もどこまで理解したか分からない。それほど俺は、自分の感情を漏らさず全部彼に伝えようとした。伝わって欲しかった。痛みも苦しみも同じように感じて欲しかった。一緒に、不幸になって欲しかった。

「ヒロは本当に頑張ってる。勉強だけじゃなく、やらなきゃならないこといっぱいあるのに、全部全力で頑張ってる」

 俺一人の世界は灰色なんだ。

「誰にも責任を押し付けられないから、自分に押し付けて苦しくなって。本当は誰も悪くないこともヒロは分かってるんだよね」

 俺一人の世界には誰がいてくれる?

「一人で苦しまないで。お願いだから僕を頼って。苦しみも悔しさも、僕がヒロに代わってみせる」

 俺の世界には、

「って言えたらかっこいいんだけど、ヒロにはなれないから、僕はヒロの隣にいるよ」

 俺の隣にはいつも、

「僕がいる」

 光樹がいる。

 俺の世界には光樹がいる。俺の消化できない汚い気持ちを分かち合おうとしてくれる。光樹がいるから俺の世界は、外の世界と繋がっていられる。


「光樹。パーカー、濡らしちゃってごめんな」

「全然。こんなの養分だよ。ヒロに頼られるのが僕の幸せなの。僕のところに来てくれてありがとう」

 今嬉しいのは俺のはずなのに、どうして光樹が嬉しそうなんだ。

 ああ、そうか、そういうヤツだったな。いつも俺を優先する。本当に光樹には敵わない。


「なあ、受験が終わったら二人でどこか行こう。二人の行きたいところ全部行こう。俺、奈良とか行きたいんだよね。桜のきれいな所あるじゃん。一度行ってみたいって思いながら、未だに行けてないんだよな」

「ヒロは、桜見るの好き?」

「好きだよ」

「えへへ、嬉しいな」

「おい、光樹に言ったんじゃねえよ。流れで分かれ」

「違うもーん。今のは僕に言ってくれたんだもーん。僕もヒロが好き!」

「はいはい」

 俺は、桜を見に行こうという提案の答えを光樹から貰っていない。光樹からの返事を聞きそびれてしまったままだった。







 次の日、予備校に到着するとヤギちゃんが飛び出してきた。

「ヒロー! よかった! 今日来なかったらどうしようかと思ってた!」

「ヤギちゃん!? どっから湧いて出てきた!?」

「虫みたいに言うなー! すごく心配してたんだよ!」


「ヒロ! よかった、来てくれて」

「ヒロー!」

 ヤギちゃんの後ろから村瀬とだひーも歩いて来た。やっぱり、俺は皆に心配をかけてしまっていたらしい。

「ヤギちゃんなんて、ガラにもなく『言い方間違えたかも』って反省してたんだよー」

「俺たちも、ヒロのことちゃんと考えずに言葉をかけてたよな。ごめん」

 二人の声は、俺にしがみついてわんわん泣いているヤギちゃんの声にかき消され気味だったが、皆が俺を想っていてくれたことが嬉しかった。

「違う違う! 謝らないで! 皆は悪くないんだから! 昨日は落ち込んでたけど、もう切り替えたから大丈夫。もう一度頑張ってみるよ」

 俺は最後まで諦めない。ここにいる三人と光樹と、笑顔で四月を迎えるんだ。




 帰り際、偶然にも村瀬に会ったため、一緒に帰ることになった。

「これ、やるよ」

 村瀬が差しだしてきたのはチョコだった。

「センター終わったら、さすがにお互い会えなくなる日が続くと思うから、先にバレンタインのチョコあげとくわ」

「え! ああありがとう。そっか。私立、始まるもんな。……寂しくなるな」

 チョコを貰った嬉しさと、しばらく会えなくなる寂しさと、俺は複雑な気分で彼を見た。

「模試のこと、あんま気にすんなよ。模試でできる人だって本番はどうなるか分からないんだから。俺みたいに」

 村瀬はまだ心配してくれているみたいだ。このチョコはきっと、励ましの意味も入っているのだろう。

「おう。……村瀬はな、俺が教えたトレーニングをすれば本番で無双だぞ」

「じゃあ、センターで一位取ってやる」

 俺たちは、間近に迫ったセンター試験への意気込みを共有した。そしていつもの分かれ道に着く。


「村瀬、このチョコって本命だったりして?」

 俺はわざとおどけた口調で言う。

「ふっ、どうだろうな。じゃ」

 軽く笑って背を向け、歩き出す彼。え? これって。

「村瀬っ!」

 俺が叫ぶと、よく整った顔が振り向いた。

「俺、村瀬と……」

 見慣れた美しい目が俺を捉える。

「村瀬と同じ大学に行きたい!……です」

 これが今の俺の精一杯だった。まだ、裸の心はさらけ出せなかった。

「俺もだよ!」

 彼はそう叫んで、駅の雑踏に走って行った。

 あの顔は期待してもいいのかな。俺は、初めて村瀬のはにかんだような笑顔を見た。




「ヒロー、おっかえりー」

「ただいま。肉まん買ってきたから一緒に食べよう」

 最近はかなり寒いのに、光樹は相変わらず出会った時と同じ服装で、コートもマフラーも身に付けていない。寒そうだから今日はあったかくなる肉まんを買ってきた。

「あんまんと肉まん、どっちがいい?」

「どっちも食べたい」

「じゃあ半分にしようか」

「やったー! 半分こ、半分こ!」

「あっつ! ほれ、半分」

「ヒロへったくそ! 半分じゃないじゃん!」

「うるせえ! じゃあ、こっち半分してみろよ」

「いいよ。あちち。はい、どうぞ」

「俺よりひでえじゃねえか……多い方食えよ」

 どちらも半分こが下手くそで、二人して大笑いした。







 ついにセンター当日になった。俺と村瀬の目指す大学は門前払いシステムで、センターの点数を一定以上取れなければ二次試験を受ける資格さえなくなる。そのため、センターでボロボロになるわけにはいかなかった。去年は何とかセンターをくぐり抜けられたけど、今年もいけるだろうか。少し不安になる。緊張感と活気のある会場の中で、昨日の光樹との会話を思い出す。


『明日はセンターだね。頑張ろうね』

『光樹は天然なところあるから、忘れ物するなよ』

『大丈夫だよ。でも、本番ではこれ外さないといけないの、嫌だなあ』

 そういって光樹はミサンガを触っていた。


 筆箱についている俺のミサンガを見ると、光樹の顔が浮かんできた。

 ヒロには僕がついてるよ。

 そう言われている気がした。


 ガラガラ……

 試験監督が入ってきて、俺の試験は始まった。




 始まってしまえば、最後までは一瞬のようだった。後は明日の理系科目だけだ。少し肩の荷が下りる。正直、焦った問題や分からない問題はあった。でも、毎度の模試で同じ経験をしているのだから、何を今更、といった風で解いていた。さらに、試験会場で誰か知り合いに会えないかと思っていたが、まさかのだひーに会えた。帰りの校門で、若干、身長が高い人物を見つけたのだ。

「だひー?」

「あ、ヒロ! ここで会えるなんて。お疲れ様ー」

 いつも通りのだひーのほわほわした雰囲気に、今日の緊張感がほぐれていくようだった。

「これが模試だったら、今すぐ答え合わせしたいところだけどね」

「明後日までのお楽しみだな」

 分からない問題があると、すぐに答え合わせをしたくなるのが受験生の性だが、答え合わせで一喜一憂してしまうと明日の試験に響くことがある。今夜の勉強では復習をしないというのが全受験生の鉄則だった。

「だひーは明日の教科の方が本命みたいなもんだよな。がんばれよ!」

「ありがとう。ヒロも頑張ろうねー!」

「おー!」

 その後、俺たちはバス停で手を振って別れた。




 その日の河川敷には、ソワソワした光樹が待っていた。俺を見つけて小走りでやってくる。

「光樹。センターお疲れ」

「ヒロ。うん! お疲れ様」

 彼は、ほっとしたような顔をして俺に近づいて来ると、ミサンガのついている左手首を俺に差し出して満面の笑みを浮かべた。

「このミサンガのおかげで、いつでもヒロを感じてたよ」

「奇遇だな。俺もだよ」

「僕、このミサンガに念を送ってたんだ。ヒロ頑張れーって。僕がついてるよーって」

「ふはは、うん。全部聞こえてたよ」

「本当!? 凄いな、このミサンガ。もしかしたらカンニングできるかもね」

 下手くそなウインクをしてみせる光樹。

「テレパシーで? 明日やってみる?」

「あ、でも僕、理系教科苦手だからなんの力にもならないわ」

「光樹は生物しかできないもんな」

「しかも植物関係だけね」

「いばるなよ」

「うふふ。ヒロが元気に帰ってきてくれてよかった。明日も横にいるからね!」

「言い方、怖えわ」

 でも、光樹の言った言葉は強ち間違っていないと思う。なぜなら、俺はいつでも「一人じゃない」って感じられていたから。







 次の日の試験も無事に終えることができた。たまたまだろうが、生物では桜の問題が出た。その問題を解いている時に、光樹が隣で嬉しそうにしている感覚がした。







「いよいよ答え合わせだね、諸君。どうだった」

 よく晴れた朝。ヤギちゃんが真面目なのかふざけているのか分からないトーンで俺たちに自己採点の結果を問う。

「俺は手ごたえがあったかなー。数A満点だったし」

 だひーやばい。満点の教科があるのはかなり強みになる。

「俺も今年はできた。いや、去年の緊張の仕方が異常だっただけだけど。今年はヒロのトレーニング法のおかげだ」

 村瀬が目を合わせてくる。俺は頷く。

「俺も、去年よりは少し余裕があったかも。少しだけね。ヤギちゃんは?」

「私も! かなりできたよ。平均点が高くない限り、二次試験は有利になると思う」

 ここにいる全員それなりに満足する結果になったらしい。よかった。しかし、本番はこれから。皆、二次試験の配点の方が高いのだ。いわば、大本命のテストは二次試験ということだ。

「絶対、絶対、皆で第一志望受かりたい。残りの期間、全力で頑張ろう!」

「じゃあ俺、皆の分も神社でお祈りしてくるね」

「そういうことじゃねー!」

「わたくし、無神論者なんで大丈夫です」

「あはははは!」

 バカみたいに笑えることが嬉しかった。大学受験の結果がどうなっても、俺はこの三人とずっと友達でいたいと思った。




 結局、今の今まで光樹の第一志望を聞けていない。というか、今更聞きづらい。考えてみれば、大学の話を光樹からすることは普段から無かった。でも勉強の話を聞いている限り、頭はよさそうなので、そこそこいい大学を目指しているんじゃないかと思う。理系教科は絶望的だけど。

 彼曰く、小さい頃から歌や詩を読んでくれる人が周りに沢山いたらしく、そこから名詞を覚えたり、話の流れを掴むのは得意らしい。理系教科は「分かる人がやればいいじゃない」スタンスだったので、ちんぷんかんぷんらしい。でもなぜか生物だけはできるという不思議な人間である。知れば知るほど興味深い光樹の生態をこれからどんどん知っていけるのだなと思うと、ワクワクする。

 俺ってこんなに人に興味を持てたんだな。新しい自分を見つけた感じだ。だひーが人間調査を趣味にしているのも分からないではないかもしれない。







 第一志望の大学の足切り点数が発表される日。俺は意味もなく、いつもより早く起きた。発表は十二時からだが、点数が気になって予備校に行く気にもなれず、家でだらだら勉強する。すると、十一時くらいに村瀬からメッセージが届いた。

『おはよう。もうすぐ出るな。どうしよう、ドキドキする。今何やってる?』

 やっぱり、自信があってもドキドキするんだな。不安と期待の入り混じったドキドキ。でもこのドキドキは嫌じゃない。

『ずっと時計とにらめっこしてる。何か集中できなくて』

『俺も。発表されたら電話していい?』

『もちろん! 検討を祈る』

 そして十二時。俺は時間ぴったりに大学のサイトに飛んだ。結果は、


 一次試験、通過。


 よし!! よくやった俺!

 その時、スマホの電話が鳴った。村瀬だ。

『ど、どうだった!?』

 珍しく興奮している村瀬。

『一次試験、通過だよ! 村瀬は?』

『俺も! 初めて通過した! やった!』

 俺たちは興奮を抑えきれず、今すぐ予備校に集合することにした。喜びを分かち合える人に吐き出さないと爆発してしまいそうだった。嬉しい。嬉しい。幸せをかみしめながら、予備校までの道のりを疲れるまで全力で走った。


「ヒロ!」

「村瀬!」

 俺たちは予備校の前で集合し、パンッとハイタッチをした。英語ではハイファイブ。

「村瀬! 頑張ったな! これで一緒に二次試験に進める!」

「ヒロこそ! もうマジで嬉しい! ヒロのおかげだ! ありがとう!」

 二人とも興奮で顔を赤くしながら、自分たちの気持ちの変遷を語り合った。今の俺たちの興奮を遮ることは誰にもできない。今までにないくらい長時間、顔を突き合わせていた。

 もちろん、ヤギちゃんとだひーにも報告を欠かさない。俺と村瀬のツーショットと共に「一次試験、受かりました!」の報告をした。二人共、心から喜んでくれた。







 名残惜しくも村瀬と別れた後、人がまばらの河川敷。夕焼けの中、全体的にピンク色の人物が見える。光樹だ。こちらに向かって手を振っている。俺は走って彼の元まで行く。

「光樹―! 俺、やったぞー!」

「ヒロー!」

 光樹の前で急ブレーキをかける。光樹は左手を後ろに隠していた。

「ヒロ! 一次試験、通過おめでとう!」

 そう言って差し出された左手には、小さな花束が握られていた。

「一次試験くらいで大げさだなー、でもありがとな!」

 自分だって先ほどまで一次試験通過に大喜びしていたのに、そんなことなど棚に上げた。受け取った花束は、薄桃色の花と、青色の花がお互いを引き立てるように咲いていた。世界一綺麗な組み合わせに見えた。

「綺麗だな」

「本当に頑張ったね! すごいよ! 二次試験もこの調子で!」

「おう! ってか、俺が落ちてたら、この花どうするつもりだったの?」

「ヒロが落ちるわけないって分かってたし」

 やっぱり俺より嬉しそうにしている。なんなら「クリスマスのお返しがやっとできたー!」とか言って、くるくる小躍りをしている。俺が大学に受かったらどうなっちゃうんだろうな。見てみたいな。光樹の反応を。

 今年こそは絶対に受かる。色んな人の顔を思い浮かべながら、俺は誓った。

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