ヒロのこと

 夏休みが終わると、あっという間に秋になった。ここからは本腰を入れて力を発揮し出す現役生が出てくるから、俺たち浪人生もウカウカしていられない。ウカウカしてはいられないんだが、モヤモヤする。村瀬が他の人と喋っているのを見ると、こう、モヤモヤって。

 ヤギちゃんとだひーは俺の気持ちを知っているから、二人が村瀬と話していても別に何とも思わない。けど、その他が村瀬に近づいているのを見ると俺は冷静でいられなくなる。村瀬は身長こそ高くないが、スタイルがモデル並みによくて、所作がきれいで、声もいい。髪はツヤツヤで、たまに掛ける丸眼鏡がとても似合う。

 これは女子も男子も惚れるだろ。俺は見た目に惚れたんじゃないけどな! たぶん。

 だひー情報によると、村瀬は嫉妬深い人が苦手らしい。でも、全く無関心でいられるのも嫌らしい。つまり、程よく愛情を見せながら自由にしてあげられる人が彼の好みだということだ。

 どうやってそんなこと調べたんだよ。だひー怖ぇ。何が怖いって、この情報を村瀬自身に聞かずに入手したってところだよ。俺も、だひーに隠し事すんのやめよう。

 とにかく、俺は嫉妬心を見せないようにしつつ村瀬と距離を縮めていった。最初よりは俺にバカな話をしてくれるようになったと思う。笑顔だって、最初よりは砕けたものになっていると思う。その彼の笑顔が絵になることったら。

 そんなこんなで俺は毎日、モヤモヤとウキウキを抱えて予備校に通い続けた。







 秋になったからか、日暮れが早くなってきた。早めに予備校を出ても、もう外は暗い。あまり光樹を暗い中で待たせたくない俺は、早足でいつもの場所に向かう。

「光樹ー、おまたせ」

「ヒロ! お帰り」

 光樹はいつも、どんなに俺が遅くなっても満面の笑みで迎えてくれる。この笑顔にどれだけ救われたか。焦りや不機嫌に飲み込まれた日でさえ、光樹に会えば落ち着きに変わる。

「最近、暗くなるの早くなってきただろ? 光樹も勉強あるだろうし、毎日は待ってなくてもいいよ」

 二人していつもの階段に座ると、外の空気で地面は冷たくなっていた。

「ううん。僕が会いたいから待ってるの。だから気にしないで。ヒロと話す時間が僕の全てなの」

「でも、これから寒くなってくるし、風邪とかひいたら……」

「いいの!!」

 突然の大声に、俺は驚いた。

「僕がいいって言うんだから! ヒロが迷惑じゃなければ、僕は毎日ヒロと一緒に……」

 そこまで言うと光樹はハッとして、言葉を続けた。

「もしかして、ヒロが嫌だった? 僕と話すの」

 何を言い出すんだ。俺だって毎日光樹と話していたい。俺がお前にどれだけ救われていると思ってるんだ。お前が大事だからこそ、体調を崩してほしくないし、俺を待つ間の寂しい思いをさせたくないんだ。

「嫌なわけない。俺はお前のことを思って……」

「『僕のことを』って言いながら、僕に構うの面倒臭くなってるんじゃないの。ヒロには友達も好きな人もいるし、僕なんかいなくても変わんないんでしょ」

「何言ってんの、お前」

 自分でも驚くくらいの低い声が出た。

 その声を聞いた光樹は、俺の顔を怯えた目で一瞬見た後、立ち上がった。

「ヒロのこと、分からなくてごめんなさい。イライラさせてごめんなさい。……また明日」

「おい! 光樹!」

 呼ぶも虚しく、彼は走って暗闇の中に消えていった。元陸上部だった俺でも追いつけなくて、途中で彼を見失ってしまった。







 次の日の帰り道。光樹になんて言おうか迷っていたら、もう河川敷に着いてしまった。緑だって、もう落ち着いた色に変わっている。光樹は……いた。道の端っこにしゃがんでいる。こちらに背を向けている彼に、ゆっくり近づいていった。

「光樹」


「……ヒロ。お帰りにゃーん」

 振り返った光樹は白猫を抱っこしていた。俺の方にズイっと掲げて笑っている。少し気まずそうなのはいつもと違うところだけど。

「猫? 飼ってるの?」

「ううん。多分、他の家の猫。僕に懐いてくれたから一緒に遊んでたの。ヒロも触ってみなよ」

 そう言われ、猫の頭に手を伸ばす。

 ニャッ

「うわっ」

 触れようとした瞬間に声を上げて光樹の腕から猫が飛び出した。猫はそのままどこかへ全力で走り去った。

「逃げられた。全然俺には懐かないじゃん」

「ヒロの良さに気づかないだけだよ」

 俺の方を向いた光樹の笑みは、いつものそれに戻っていた。俺を安心させてくれる笑顔。

「昨日はごめん。俺の言葉が足りなかった。俺は光樹が本当に大事で、光樹と話す時間が本当に好きで……」

 そこからは、俺の光樹への言い訳みたいになっていた。でも、光樹は最後まで頷きながら聞いてくれた。


「そっか。そんなに思ってくれてたんだね。分かったよ。分かったから、泣かないで?」

「え?」

 自分の右頬に手を添えると濡れていた。知らずの内に泣いていたらしい。

「ヒロを泣かせるまで追い詰めてごめん。ありがとう。今日、もしかしたら来てくれないんじゃないかって、ちょっと思った」

 光樹はパーカーの裾を伸ばして俺の左頬の涙を拭う。

「でも、来てくれたから、めちゃくちゃ嬉しい」

 光樹も泣きそうな顔で笑うので、何とか彼を泣かせまいと「帰り道だからどっちにしろ通るんだけどな」とか、かわいくないことを言ってみる。

「えへへ」

 何で嬉しそうなんだよ。昨日光樹を傷つけたのは俺だけど、今日俺を泣かせたのは光樹だから、これでお互い様な。

 これ以上言葉を発すると声が震えてしまいそうだったので、その言葉は俺の心の中だけで言った。







 季節は過ぎ去り、冬に近づいていく。俺は模試の成績も上がり、自分の学力に自信が付いてきた。もちろん俺の努力の成果でもあるけど、それ以上にヤギちゃん、だひー、村瀬、そして光樹のおかげでもある。光樹とは、仲直りしたあの日から何でも話せるようになった。元々隠し事なんて無かったけど、小学生の頃に友達のシールを盗んだとか、高校時代にいた嫌な奴の話とか、村瀬との妄想、とか。何でもないことからギリギリな話まで何でも話した。一度友と険悪なムードを経験して乗り越えると、それ以上の友情を手に入れられるっていう話は漫画の中だけだと思っていた。だが、雨降って地固まるという経験を俺はしたんだ。俺は、光樹をまるで兄弟のように感じるようになっていた。俺には兄弟がいなかったから、こんなことを光樹の前で呟いたことがある。

「俺に本当の兄弟がいたら、こんな感じなのかな」

 別に誰に向けて言ったわけでもなかったから、無視されても気にならなかったけど、光樹は何も言わずに前を見ていた。

 あの時、光樹は何を思い、どこを見ていたのだろう。







 十一月後半。十二月に向けて世間のソワソワが始まる季節。十二月に入ると世間はイベントで大忙しだ。俺たち受験生には関係ないけど、世間の中で暮らす以上はどうしても目についてしまう。去年だって世間のイベント事を見て見ぬふりをしていたが、かなり辛かった。そして今年もそうなるはずだった。


「ヒロは冬期講習、何受ける?」

 授業が終わって、村瀬が俺に話しかけてきた。この予備校の冬休み期間は通常授業が無い。冬期講習といって、自分で受ける授業を選び、その授業ごとに授業料を振り込むシステムだ。この冬期講習の授業は通常授業と違って一日中続く授業が多い。つまり、朝から夜まで同じ授業を受け続ける。生徒も大変だが、先生も大変だ。ちなみに、冬期講習は現役生も受けられる。そのため、人気の先生だと教室が人でいっぱいになることもある。最悪、座れないなんてこともある。

 そういえば、もうすぐ冬期講習の申し込み締め切り日だ。

「英文法と現代文は絶対受けるかな。英作文と数ⅡB迷ってる感じ。村瀬は?」

「うーん。俺も迷ってるんだよね。でも、ヒロと同じの受けようかな」

「え!? そんなんで決めていのかよ。俺のレベルに合わせてたら村瀬のレベルが落ちるぞ」

「違う違う。もちろんサム先生の英語は受けて、更にヒロと同じの受けようかなってこと。俺的には現代文迷ってたからさ」

 サム先生の英語クラスはこの予備校でもトップクラスで、模試の結果が一定以上ないと受けることすら許されない。エリート中のエリートしか受けられない授業だ。ってなことはどうでもいい。村瀬、俺と同じ授業受けるって言った? こんなに頭のいい村瀬が俺に合わせて授業を選ぶって、何か嬉しい。マジ狂喜乱舞。俺の実力が認められているようで嬉しいのか、好きな人に「あなたに付いていくわ」って言われた感覚で嬉しいのか分かんないけど超欣喜雀躍。

「同じ授業受けるならさ、村瀬の席も取っておくよ。どうせ俺の方が先に来てるんだし。どこら辺がいいとかある?」

「まじか。前の方ならどこでもいいかな。うわー、ありがとう。助かる。席取りは現役生が強いからな」

 彼の絵になるスマイルが俺に向けて流星群のように注がれる。村瀬かわいい。


 次の日、俺と村瀬は冬期講習の申し込みを済ませた。一緒に受ける英語の授業の日は、十二月二十五日だった。




「ヒロー、お疲れー」

「だひーじゃん、お疲れ」

 帰り際、だひーに会って途中まで一緒に帰った。

「クリスマスにやる英語の授業、村瀬と一緒に受けるの?」

 さすがだひー、情報が早い。もう驚かないぞ。

「うん。隣に座る約束までした」

「抜け目がないねー! いいクリスマスになるといいね」

「いいクリスマスって。一緒に授業受けるだけだから」

「何かお菓子でもあげたら? クリスマスにかこつけて。村瀬、サラダチキン好きだよ」

「だから何でそういうの知ってんだよ……。てかサラダチキンて。お菓子でもないし、マニアック寄りだろ」

「うふふ、クリスマスにチキンって別に変じゃないよー?」

「チキンはチキンでも、さすがにサラダチキンあげるって引かれない?」

「友達に好物もらって引く人なんかいないよ。逆に、『俺、お前のこと知ってますけど』アピールになるじゃん」

「そんなマニアックな好物知られてたら逆に怖いけどな」

「じゃあ、あげないの?」

「あげる」

「さすが! 村瀬は、ファムリーマートのスモークサラダチキンが好きだよ」

 だから何で知ってんだよ。




 クリスマスにプレゼントか。光樹にも何かあげようかな。光樹は何が好きなんだろう。食べ物じゃない方がいいかな。聞いてみよう。

 そんなことを考えながら、地味な色で溢れる河川敷を歩いていた。

「わっ!!」

「ぅわあ!!」

 いきなり後ろから光樹が驚かせてきた。初めての登場の仕方に腰が抜けた。


「びっくりしすぎ。大丈夫?」

 光樹は笑いを堪えながら、しゃがんで手を伸ばしてくる。彼の手を借りて立ち上がる。

「だ、大丈夫。光樹のこと考えてたところだから余計にびっくりした」

「えっ、何、何? 僕の何を考えてくれてたの? おーしーえーてー!」

「来月、クリスマスだろ? いつもお世話になってる光樹に何かあげたいなって思ってさ。何が好き? てか、欲しいものとかある?」

 光樹は目をぱちくりさせる。

「えー、別にいいのに。でも、くれるって言うならありがたく受け取ろうかな。そうだな、うーん。ヒロに貰うんだったら、ずっと残るものがいいな」

「じゃあお菓子とかじゃない方がいいってことか」

「あ、でも、考えるために勉強時間削るくらいだったら、ちゃちゃっと買えるものでいいから! そういうのは気持ちが大事だもんね」

「まあ何か考えとくわ。楽しみにしといて」

「うん!」

 そう頷く光樹は本当に嬉しそうな表情をしていた。光樹が光樹のために喜んでいる。いつも俺のことばかり考えている光樹にそんな一面があることを知って、俺も嬉しくなった。受験が全て終わったら、もっともっと光樹に恩返しができる。光樹のために時間を使える。その時に心から笑えるよう、今を頑張ろう。

 この一年間は既に、俺のためだけの一年間ではなくなっていた。







 十二月二十五日。張り切って誰よりも早く予備校に来て、前の方の席を二つ陣取った。誰もいない教室を見渡す。俺の席の隣を見る。そこに座る村瀬の横顔を想像する。村瀬のクリスマスは一日中俺と一緒だ。俺が村瀬のクリスマスを貰ったも同然だ。クリスマスなんて関係ないはずだったのに、いつの間にか、俺の中で今日がビッグイベントになっていた。


 授業の時間が始まってからはあっという間だった。集中していたからか、村瀬に「お昼食べよう」と言われるまでノートにペンを走らせ続けていた。お昼を食べながら、二人で授業のまとめや分からなかった点を確かめた。通常は村瀬にデレデレの俺だけど、勉強中は内容に集中できる。多分、村瀬の本気で真面目な雰囲気に、俺の襟を正させる何かがあるのだろう。その雰囲気も俺は好きだった。


 夜の九時になってようやく授業が終わった。皆が帰り支度を始める。

「帰ろうか。お腹空いたなー」

 眼鏡をはずして目の辺りを揉みながら村瀬は言う。

 今だ、渡そう。

「村瀬、これ、メリークリスマスってことで……」

 最後の方は消え入りそうな声で、コンビニの袋をガサッと村瀬に渡した。

 本当は百均とかで紙袋でも買って、その中に『いつもありがとう! 受験がんばろうな』とか書いた手紙を入れて、スマートにプレゼントしたかった。でも、それって女々しい? とか、気持ち悪い? とか迷っていたら当日になっていた。結局、コンビニの袋に入ったスモークサラダチキンをそのまま押し付ける形になってしまった。せめてもの気持ちを表すために、サラダチキンのパッケージの端っこに「メリークリスマス」とだけペンで書いた。あれ、逆に女子高生みたい?

「え? いいの? ありがとう。わぁ、サラダチキンじゃん! しかもファムマの。俺、これ大好きなんだよ。知ってたの?」

 だひーの言葉を思い出す。『俺が教えたってことは言わない方がいいよ。こういうの好きそうだと思ったーとか言っておきな』と彼は言っていた。

「こういうの好きそうだなーって思って」

 ウソをついた。

「大正解だよ。今日の晩御飯はチキンだ。クリスマスだなあ。ありがとね。あ、でも俺、ヒロに何も用意してない……」

「いいんだよ。俺が勝手にやったことだから。いつものお礼も兼ねて」

 その帰り、村瀬は別れ際にもう一度「ありがとう」を言ってくれた。それを聞けただけでも今年は誰よりも最高のクリスマスになった。




 俺がリュックを漁る様をじーっと見つめる光樹。そんなに見つめられたら俺のリュックに穴が開くんだが。

「ちょっと、そんなに見ないで」

「だって、今日を楽しみにしてたんだもん。何が出るかなぁ」

 語尾に音符でもついていそうなくらい楽しそうに待つ光樹。彼に渡すプレゼントをリュックから探し出す俺。

「はい。プレゼント。メリークリスマス」

「お、出たね。開けてみていい?」

「どうぞどうぞ」

 光樹は小さい紙袋に入ったプレゼントを取り出す。そこから出てきたのはミサンガだった。

「ミサンガ? 暗くてよく見えない。明かり、明かり……」

 光樹は、俺のスマホのライトでミサンガを照らす。ライトに照らされたミサンガが姿を現す。俺が渡したミサンガは二色のピンクと一色の茶色で三つ編みのように織り込まれたミサンガだった。

「うわー! かわいいね! 僕この色、気に入ったよ。大事にする。ありがとう」

「何渡そうって考えてたら、俺が小さい頃にばあちゃんから貰ったミサンガ思い出したんだよ。ばあちゃんが『大切な人と一緒につけてね』って二つくれたの」

 そう言って俺はもう一つのミサンガを取り出す。俺のミサンガは二色の青と一色の黒で三つ編みにされている。

「ってことは、お揃いってこと?」

「そういうこと」

 すると、光樹はちょっと黙ってから顔をパーカーの袖に埋めた。しばらくしてズズッと鼻をすする音が聞こえた。彼は泣いていた。

「え、泣くほど!?」

「だって、嬉しっ、くて。こん、な素敵なも、ものを貰える……なんて」

「泣くなよ、俺が泣かしたみたいだろ」

「そうじゃん」


 その後、落ち着いた光樹が「お揃いで付けよう」と言ってきたので、俺はそのミサンガを筆箱に、光樹は手首にそれぞれ付けた。

「僕からのプレゼントはもうちょっと待ってて。凄いのあげるから」

「気にしなくていいのに。でも楽しみにしてる」

「うん」

 照れ隠しに頬を掻く彼の手首にはミサンガが見えた。暗くてちゃんと見えないが、きっと光樹によく似合ってる。

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