06

「ただいま」

 引き戸をひくと、漂ってきたのはカレーの匂い。キッチンの大鍋を覗いてみると、具沢山のさらさらなカレーが、深さ知れず、火にかけられていた。この後、僕の皿にはなみなみと盛られて、おかわりは? と訊かれるだろう。僕は大丈夫、とこたえて、家族の会話は一度止まる。間を埋めるのはたいていテレビのニュース、幾度も持ち上げられては据え置かれる食器の重み。

 居間のほうに見慣れないシャツがかかっていて、これお父さんの? と僕は叔母に訊く。

「ああ、お父さんがね、これをすぐに洗濯しといてって。そんなこと今朝言ってきてね、雨の日なのにね」

 言葉は不満を漏らしているのに、言い方は上機嫌だった。叔母は冷蔵庫を開いたり閉じたりを繰り返している。ただそれだけを行っているみたいに見える。なのに、夕食の準備はみるみる整っていく。

 ぶら下がった黒地のシャツの胸元には鰐のロゴが貼り付けられていて、その緑がワンポイントになっている。鰐は大きな口を開けていて、その口の中は、ほとんど点のような赤がある。それなのに、本物みたいな歯がぎっしりと敷き詰められていて、気味が悪い。

 それに、キッチンと居間のあいだにぶら下がっているから、少し邪魔に感じる。さらには、いちいち鰐と目が合ってしまうような気がして、心地が悪い。

 叔父はまだ帰ってきていないみたいだった。僕は普段叔父が座る席にあぐらをかいてみた。左隣にひとまわり小さな僕がいて、もそもそと食べ物にありつく。箸遣いが未だなっていなくて、ぽろぽろと米粒を膝に落とす。たまに煮物の汁も落として、取れそうにないシミを畳につくる。

 そんな生き物へのあたたかい眼差し。想像するのが難しくて、僕は自分の定位置に少しずれる。しばらくのあいだ、叔父に見られる練習をする。叔父はまだ帰ってこない。

 食事を済ませた後に、すぐにお風呂に入るのはつらい。食べ物が胃で煮詰まり、のどの奥から食べ物のにおいが漂ってくる。食べることは美しいのに、僕の身体が食べ物を消化し、排せつへと向かっている、それを認識させられることにひどく嫌悪感をおぼえる。

 それでも、雨に冷えた身体を暖めたかった。だから、いま僕は湯船で自分の膝小僧を眺めている。身体の中でも、数少ないその曲線を僕はなぞっていく。左から右へ、右から左へ。それが済んだらまた左から右へ、右から左へ。成長とともに、少しずつ変化してきた僕の身体。けれど、膝だけはまだまだ丸い。

 揺れた?

 たぶん、大した揺れじゃない。地震に慣れきった身体は本能的な不安を潜め、僕を湯船に居直らせる。けれど、僅かに波打っていた湯船は、次第に跳ねるようになっていった。正直、強がっているが、少し怖い。特に、お風呂場でこんなに揺れるなんて。こんな狭い箱の中に裸で閉じ込められている。

 今裸のままお風呂場から出てしまうと、まず叔母に見られてしまうだろう。それは避けたい。バスタオルでも巻いてでようか。それとも、いつか映画でみたように水の中に潜っていれば大きな衝撃はいくらかやわらぐはずだ。でも水の量は圧倒的に少ないけど、どうする。

 揺れの勢いが増していき、シャンプーやリンスのボトルは滑りながら浴槽と壁の間で跳ね返りつづけている。掴まるところがバスタブしかなくて、両手で身体をバスタブの内側へと引き寄せた。

 遠くで叔母の声がする。たぶん、叔母も部屋のどこかで何かに掴まって、揺れが収まるのを待っているのだろう。きっと、大丈夫。もう少しこうしていれば、大丈夫。脱衣所に黒い影がみえたと思ったら、間もなく、叔父がお風呂場の扉を開いた。

「大丈夫かっ」

 切迫した様子の叔父は、僕の表情をみてさらに焦っているようだった。僕の無事を確認できた叔父は、姿勢を崩しながらお風呂場へ滑り込んでくる。そして、ちょうど僕と同じような体勢でバスタブに掴まる。

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