04

 そろそろ帰ろうかな。

 そう思うものの、口には出さない。安祐美もきっとそう思っているのだろう。よく知らないキャラクター達が一斉に首を吊っている鞄、それはずっと安祐美の肩にかかったままだから、いつでも立ち上がり、この場を去ることはできる。

 でも、そうしない。そうしない二人が、結局ここで無為に時間を過ごしていることに気づく。運動部をひたすら見続けるなんて、その視線の先に好きな人でもいなければ全く退屈な行為だろう。

「ねぇ、悠斗君ってさ……」

 湿った風が吹いた。かなり長くなってしまった髪の先が、口元にふれた。

「ずっとここにいるんだよね?」

 安祐美が僕にそう訊ねた。たぶん、僕の顔をみている。いくつか数を数える。数字が大きくなるにつれて、ここがどこなのかが、わかるようになっていく。

 また、湿った風が吹いて、ぽつ、僕の太ももに水滴が落ちる。今朝の、無念のひじきを思い出す。次の水滴が落ちると、また次の水滴が落ちた。そうした調子で雨は僕らを急がせた。ちゃんと帰る理由ができた。僕は身体を持ち上げて、雨だ、ときちんと呟いた。

「帰る?」

「きっとこれから強くなるから、いまのうち帰ろうよ」

「もう?」

 もう? の、「う」が高く上がって耳を引っ掻く。少し前まではこんな言い方はしてこなかった。

 そうしている間にも、雨音は強くなっていっている。このままどこかに雨宿りはごめんだ。

「わかった。帰ろう。傘、あるの?」

「あるよ」

「わたしの傘大きいよ。入ってく?」

「いいよ。大丈夫。自分の傘で帰るから。それに帰る方向違うでしょ」

 安祐美の表情はここからはみえない。その手は確かに大きい傘を開こうとしている。中学生の女の子には似合わないくらい、ずっしりと、暗い色の傘の柄を安祐美が持つ。

 大きな傘から伸びる細い足が、僕とは違う方向へ歩みだすのを確認した後、僕は僕の帰り道を進んだ。遠くで雷が鳴りだして、あたりは暗くなっていく。雨がぼとぼとと頭上に礫のようになって落ちる。僕はまだ小さな水溜まりをいくつか飛び越えて、早足で駅へ向かった。


 

 枯草色の椅子に腰かけて、雨に濡れた街が流れていくのを見つめる。今朝よりもずっと軽快に電車は走っているみたいで心地よい。

 雨に打たれながら自転車を走らせる人を車窓から見送ったころ、どさりと人の頭が僕に垂れてきた。髪のない頭が左肩で重たい。

 僕はピンボールをはじくみたいに左方に力を込めて跳ね返した。その頭は急激に失速して、ちょうど良い具合に垂直になった。ごく普通のおじさんの顔がそこにはりついていて、眉をぴくりと動かしている。

 起きるか、起きるか、起きるか、と見守っていたが、結局起きず。次にこちらに倒れてくるのかを気にすることが、いちいち面倒に感じる。

 この顔に、僕がキスをしたらどうなるのだろう。

 ふと浮かんだ想像が、何やら危険めいていて、少しだけ怖くなる。たまに、自分の発想が突拍子もないときがある。きっと意味はもってないけれど、意味が生まれてしまいそうな感触を持つ。

 僕の口はおじさんの口を塞ぎ、途端に苦しくなったおじさんは目を覚ます。そこには僕の顔があって、おじさんは一瞬戸惑うも、僅かに力を抜いて受け入れる。それを見た僕は、満足げに舌を入れていき、出せるものを全て吐き出して舌を引っこ抜く。抜け殻のおじさんに、どうだった? と訊く。おじさんは何も言えないで息を整えようと努める。

 活発に出てくる自分のストーリーが怖い。後はもう実行するだけで、引き金は簡単にひくことができる。その現実味が狡いとさえ思う。

 もしかしたら、いつのまにかそんなことを実行しているのかもしれない。いつの日か、そんなことをしてしまったのかもしれない。

 

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