03

 放課後は、鋭く高鳴る。一番聴覚が敏感になるような時間。見えなくても、触れなくても、十分に感じられて、ひどく気分が沈む。何かが僕らにもあるかもしれないと思い、なんとなく帰宅部は学校に残る。

 けれど、たいていそこには何もなくて、いつでも何かが起こっても良いようにその時を待つ。そのための無為なおしゃべりは、たまに迷子になったりして、その隙間を埋めるために、必死に言葉を探す。

 僕はそうはならない。その裏側に、また別の時間が流れているのだ。中学生同士の秘密の時間。たいてい、放課後は安祐美と体育館の入り口に伸びる階段に腰掛けている。

 ここは、飛び交う硬式ボールや、何度も揺れるゴールネット、どんなものでもみえる。耳だけ澄ましていると、瞼の向こうからくる謎めいた光で眩しい。

けれど、いざ五感を使ってみると、本当は眩しいだけじゃないことがよくわかる。彼らは、何度だってこけてしまうし、ボールだってほとんど上手くとれていない。ほら、いま、泥のはねたユニフォームに、まだ新しい泥がシミをつくっている。

「ね、悠斗君」

 同級生と比べて、少しだけ高いと思っていた僕の声。安祐美の声は、その上をいく。

「国語の時間ね、笑っちゃった」

「え?」

 今日の国語の時間、先生から指名されて朗読したことを思い出す。

「木村、ってきいたら、全部悠斗君みたいに思えてきてさ」

 どうやら物語の登場人物の名前がツボに入ったらしい。

 冬の終わりに木村一家は火事に見舞われ、家財の一切を失う。無一文になった木村家は、それまでは薄情だった家族のひとりひとりが互いに向き合うことを試されて、そして経済的には不足があるものの、精神的には充足された形で終わる。悲惨な話なのかもしれない。しかし、物語の中で、木村一家は一つ前に進んだようだった。

「僕を貧乏にしたいの?」

 僕は微笑みかける。あと数センチで理想になるはずの、この顔。

「そうじゃないけどね。でもさ、好きな人と登場人物を重ねると、ストーリーが入ってくるんだよ」

「それはわかるかも」

 安祐美が話をふって、盛り上げて、沈黙がおとずれる。この手続きをいつも何度か繰り返す。会話が嫌なわけじゃない。けれど、いつだって言葉は出てこない。

「日曜日、あいてる?」

 本当は安祐美の日曜日の予定はどうでもよかった。でも、こうして予定を訊くと、安祐美は大概、身を乗り出して僕のことを見る。

「ごめん、日曜日は家族と出かけるから」

 想定した返事と違って、僕はその次の日曜日は、と訊きかけるが、返答が怖くて、舌を強く噛む。家族。その言葉に、僕はひどく敏感になる。急に安祐美がいじわるな人間に思えてきて、腹が立つし、虚しくもなる。

 ヴッとスマホが震える。

「ちょっと、ごめん」

 近づいた瞳になんとか笑いかける。

『お弁当、どうだった?』

 一瞬、叔母からだと思ったが、叔父からだった。なぜ叔父からお弁当の感想を求めるメッセージがくるのだろう。

『おいしかったよ』

 指を素早く滑らせる。

「誰から?」

 安祐美は覗き込まないようにして、僕に鋭い声で訊く。両手を組んで、それをきちんと畳んだ膝の上に置き、上目遣いで僕をみている。

「お父さん」

「お父さんとやり取りするの? 珍しいね」

 珍しいね、の「ね」が強く止まった。気味悪がられているのだろうか。でも、少ない日常会話の中の、ほんの一つなのだ。安祐美の目の前で、僕は叔父からのメッセージが嬉しくもあった。

「たまにね」

「たまに」

 普通はお父さんとなんか連絡しないでしょう、という安祐美の表情を想像する。

「お父さんとのやり取りのほうが多かったりして」

「それはないよ」

 僕は叔父とのやり取りを安祐美にみせる。あくまで操作しているのは僕で、安祐美の顔の前に慎重に差し出す。スマホをスクロールする僕の手つきは必要以上に速くなってしまっている。安祐美は、ふうん、と言うと、ゴールネットへと顔を向けた。

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