27

 千秋の顔は未だに「違う」ままだ。もう何かを持っているとは思えないのだろう。

 これは、一体どんな気持ちだったんだろう。愛があるとすれば、どれくらいだろうか。

 千秋が、隣でおれの左袖を弱々しく掴んだ。ただそれだけの動作なのに、空気の振動か、またはおれの身体の中でかすかな音なのに強く響いた。

「私のこと好きだった?」

「え?」

 不甲斐ないほど間抜けな声が出る。

「一度も聞いたことなかったね。一度もそういう話にならなかったね」

 千秋は涙声のまま、おれに訊く。だけれども、千秋の身体は俺と少し距離を置いてしまっている。どこか、うすら寒い。

「わかんない」

「そんなの嫌。ちゃんと答えて」

「わかんねぇって」

 千秋は少し距離を置く。どんどん温かみが消えていく。

「ごめん。千秋、もうちょっとだけ、こっちにきて」

「答えて」

 好きかどうかって、おれがみていたものは……。

「私ね、胸なんか無くたって生きていけるよ。大和のいうとおり、たかが片方だし。もう片方もなくなったら、男の子にでもなってやろうかな。でもさ、たかが片方だもんね。そうだよ」

 千秋の中で、どんどん胸の価値が消えていく。でも、きっと消えていっていると思っているのは、おれのほうだけ。でも、そんな考え方をしなければ、おれも、千秋も、どうしようもない気持ちを抱えてしまうような気がした。

「男は胸以外見ないってことがよくわかった」

 千秋はベンチから立ち上がり、「じゃあね」と告げる。なんの「じゃあね」なのかは、よくわからない。

 千秋が街灯のないほうのあぜ道へと溶けていく。その背中が、もう構わないでほしいと言っているように思えた。

「ごめん」

 千秋に聞こえるはずのないおれの言葉が浮遊する。吐いた声が、さっきよりもずっとずっと震えている。



 その日の夜、瑠衣さんに電話をした。どれだけ待っても、彼女が出ることはなかった。しかし、数時間後に、瑠衣さんから電話があった。どこにも焦点のあわない声は、あの頃と変わりないようだった。

「いまから?」

 おれはいまから会えるかと訊いたが、瑠衣さんは「うーん」と長いため息をもらした。

「わかった、ちょっと待ってね」

 その言葉を最後に、瑠衣さんの声はきこえなくなった。電話を切られたわけではなかったが、おれがいくら訊ねても、奇妙な濁った音しか、きこえてこなかった。

「瑠衣さん、きこえますか?」

 おれは、もう少しだと思いながら、いつまでも懐かしい声を待っていた。


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