13

 身体が教室にかえってきた。

 また、似たような夢をみていた。

 制服の袖のボタンが頬に食い込んでいたみたいだ。触ると、ゆるいおうとつがあって、少しだけ痛い。痛みの中に、瑠衣さんの涙の感触が未だに残っている気がする。

 こんなにも静かな教室なのに、あんな激しい夢ばかりみる。もう一年も前になるのに、おれはきちんと忘れられずにいるのだ。特に新しく誰かを好きになることのないまま、あのときの記憶はまっさらなまま。

 顔をあげると、黒板には細胞が分裂する様子がかかれていた。左から順に、目を移していく。きちんと分裂し、生命が着実に成長している。

 黒板の前の席には、いつも空席があったことを思い出す。今はもう、進級をしてしまったから、あの席はなくなってしまった。あそこに座っていた彼女の姿を思い出そうとするが、そのときの記憶はひどく曖昧なままだ。



 ぎりぎり間に合うと思っていたが、出勤時間には間に合わなかった。原因は、とにかく考えすぎということなのだと思う。電車を降りた時から靴擦れを起こしていたのにも関わらず靴が脱げたのに気付かなかった。鞄から文庫本を落としたことは、数歩先を歩いてから通りすがりの人に教えてもらった。そんな状態だから、右腕に時計があることなんて覚えていなかった。

「また来てるよ」

 店に着くと、真っ先に緑さんがそう言って、顔を奥の席へ向けた。去年、あの窓際の席にいた彼女――千秋がコーヒーをすすっていた。また、あの後姿をこちらに向けている。

「いちいち言わなくても……」

「?」

 エプロンを着けると、すぐにおれは千秋の元へと向かった。机にはまた画用紙が置いてあった。千秋は新しい作品に取り掛かっている様子だった。

 目の前に腰かけると、やっと千秋は顔をあげた。

「あ、こんにちは」

「もう夜になるよ」

「そしたら、こんばんは」

「何時からいるの?」

「お昼過ぎからです」

 千秋は手の動きを止めた。筆先には、女性の曲線が描かれている。何度も身体をなぞっているから、滑らかな筆跡の中に力強さを感じる。

「別に敬語じゃなくてもいいよ。タメ口でどうぞ」

「そうですか?」

「うん。同い年だし。同級生だったわけだし」

「……そうだ、うん、そうだね」

「で、何を描いてるの?」

 明らかに女性の裸体だった。見ればわかる。

「おんなのひと」

 そう言うと、千秋は再びペンに力を込めた。肩から黒を入れて、胸、くびれ、腰へと降りていく。その造形をはっきりと浮かび上がらせるために、ずっと繰り返している。確かに素人目にみて上手なのだけれど、どこか気持ち悪い。

 その画用紙の下には、いくつもの作品が積み重なっているみたいだった。たぶん、あの紙芝居が下で息をひそめているのだ。

「その下の紙はなに?」

「どれ?」

「どれ、じゃなくて、その下にあるの全部が何なんだろうって思って」

「これはね、……」

 

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