11

「ごめん、なんの話かさっぱり」

「やっぱり、そうですよね。覚えてない、か」

 彼女の視線が、また彼女の作品に戻る。なんだか、やけに寂しそうにみえてしまったので、おれはなんとか思い出す努力をした。高校一年とき……去年の春、夏、秋、冬……どの季節を思い出してみても、この子を学校で見かけた記憶はない……。

「うん、やっぱりわかんないや」

「私、あなたと同じクラスでした。同じ二組」

「え?」

「私の席は、一番前の窓際。あなたの席は一番後ろの窓際」

「あ、……」

 そうだ。ぼんやりと昔の景色を思い起こした。この子の顔こそ、覚えていなかったが、一番前の席の子が、四月早々にいなくなったことを。

「担任の先生の名前は、丸山先生。優しいひと。別に、私にだけ優しいわけじゃなくて、みんなに平等に優しい人だったけれど」

「ああ、うん」

「私、あのとき、」

 彼女が言いかけて、おれの顔をちらりと見る。なぜか今頃気恥ずかしくなったらしく、顔を赤くしている。何度か瞬きして、視線が少しずれる。

「私のことを覚えていて、声をかけてくれたと思ったんです。……だけど、そうじゃないみたいですね。なんで、なんであのときわざわざ声をかけたんですか……?」

 なんで?

 そこにいるのが似合わなかったから。そのまま、そこにいると、いけない気がしたから。そのまま思ったことを言おうとしたけれど、答えになっていなくて口をつぐむ。

「変、だから、ですか」

 沈黙がながれる。聞こえてきたことのなかった時計の針の音が、消え入りそうなジャズに重なって耳に届いた。

 彼女はやっとカップに手をかけ、中の真っ黒を眺めると、目を閉じてすすった。

「おいしい」と、彼女は言い、僅かに笑顔をみせた。

「あそこにいてほしくなかったから」

「はい?」

 つい、ど阿保な滑走路を走り出してしまった。もう止めることはできない。

「あんなとこ、君にとって害しかないから、だから手を取って、走った」

 彼女はふっと、今度は歯を見せて笑った。コーヒーをすすったばかりの歯なのに、きちんと白い。

「まさか、そんなこと考えてたなんて。おもしろいですね」

「いや、……おもしろいかな……」

「私の名前、覚えてますか?」

「名前……」

「あなたは、窓際の、大和くん」

 この子の名前は……確か、

「千秋さん」

「すごい。よく覚えてましたね」

 まぁ、名前は。

「そうだ。君も、あのころ、窓際にいたんだ」


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