08
ふう。もう午後九時になった。そろそろバイトからあがる時間だ。
さっき飲んだコーヒーは決して不味くはなかったが、その味が、まだ表面的にしかわからない。味の一番外側だけが舌の上を滑り、本質を閉じ込めたまま飲み込んでしまっている。残るのは、いつも、苦さ。
氷水の入ったサーバーを傾けて、カップの黒を薄めていく。また自分の表情がのぞける気がしたが、そんなことはなかった。
からんからんと店のドアの開く音がして、反射的にいらっしゃいませと口が動いた。
「あ……」
注ぎすぎた水があふれて、思わず手の甲についた水滴をすする。零れ落ちた水が、静かにスニーカーにしみ込んで、おれの届かないところまで消えていった。皮膚の味が僅かに舌に残り、それを新しいものに変えるために、いま入れたばかりのグラス一杯の水をのどに注ぎ込んだ。思ったよりも冷静に、グラスを豆の香りの残るテーブルに置く。
彼女だった。
震える手が、握力だけで、グラスを割ってしまいそうになる。力の入らない身体が、人生において、今一番軽く吹き飛ばされそうになった。
おれに一瞥くれた彼女は、一瞬静止したようにみえたが、ほとんど動きを止めることなく、奥の席へ吸い込まれるように向かっていった。
「どうした?」
「あ、いえ、なんでもない、です……」
数少ない貴重な客だぞ、お冷をはやくもっていけ、このグズ。
緑さんはそんなことは言っていないけど、絶対そう思っている。じりじりと焼き付く後ろからの視線が背中にぶつかっているようでとても痛い。
間違いない。あのときの格好とは違って、マニッシュなパンツスタイルだけど、確かに彼女の後姿だ。あの日、おれが、身勝手に手をつかんでしまった女の子が、目の前にいる……。
手が滑りそうだ。額から噴き出した汗も落ちそうだ。
おれは、水滴を纏ったままのグラスを、彼女の前に差し出した。
「メニューお決まりになりましたら、お知らせください…………」
彼女は細い声で、はい、とだけ言った。メニューをひらいて、可愛らしく描かれたコーヒーの絵に視線を落としている。その、睫毛のつくる陰、どれだけ説明してもいつまでも深い意味を持ったままの謎めいた横顔。
ねぇ、気づいている? 気づいていない? どっち?
全身が膨張していくみたいだ。たぶん、これはいつか見た熱気球の姿に似ている。身体の内側から、微熱によって膨らんでいく。やがてそれは業火に変わり、自分の変容を隠すことなく、猛々しく、しかし緩やかに、上昇していく様子。
何か言葉を放ちたい。何かを言えたら、さらに、そこに言葉を付け加えたい。でも、たぶん、あのとき生まれたまっさらな欲望は、いつまでもそのまま。
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