第一話 時は満ちた
一般では入る事さえ出来ない。そのため、二人の住む小屋には、囲うように強力な結界が張ってある。
山暮らしを始めて五年経った。影壱は鍛錬と山での生き方を、ぶっきらぼうに教えていた。一嘉は切り傷が増える一方だった。軟膏を塗って誤魔化し、治りかけの傷の上からまた傷を作る。山暮らしをする前は、貴族らしく玉のような肌は傷だらけに。艶のあった赤茶色の髪は薄汚れ、伸び散らかした髪は括って、邪魔になるようなら刀で切り、全体的に不揃いになった。服装も肌触りの良い服も、破れては縫い直しみすぼらしい格好へと変わる。貴族の子息という面影もなく、狩人のように見える。
一日の流れは固定されていた。一嘉は、日が昇る前に起きると、身体をゆっくり解した。軽やかに木から木へ飛んだり、崖を登ったりする。向かう先はここらで一番高い山。その頂から昇る日の出を見るために。
頂上から戻ると、影壱が小屋の何処にも見当たらない。見当がついている一嘉は、隣にある簡素な道場へ向かう。小屋よりはよっぽど作りがしっかりとしている。
景壱は瞑想していたが、一嘉が声をかける前に目を開けた。影壱の対面に胡坐をかく。座ったところで、影壱は言った。
「明日ここを出る」
「んーと。それは、夜遊びするから?」
冗談めかして言うのを咎めるように、影壱は軽く拳で頭を叩いた。彼の左手には、大きな傷跡がある。強大な敵と対峙した証だと自慢していたが、本当かは分からない。漆黒の短髪には白髪が少し混じっている。
「あほう」
「いった」
「俺もだが、今回はお前もだよ」
「え、なんでよ。いつも呼ばれてるの、影壱だけじゃん」
「いや、お前は望月家に行くんじゃない」
「へ?」
「一人立ちをする時が、来たんだよ」
手渡された書簡は達筆な文字で書かれている。唖然と見つめたが、やがて息を吐いて瞬きをした。
「ご当主様から。陰陽師見習いとして、妖怪退治の仕事を始めるよう書かれてる。随分と修行の期間を延ばさせたが、周りがうるさいようでな」
影壱は一嘉を鍛えぬいた。その実力は影壱に迫る勢いがあった。最近は戦闘訓練でも、気を抜けなくなっているくらいの上達振りに感心していた。それでも妖怪相手にどこまで通じるか、影壱には分からない。だからこそ今日まで時間を延ばさせていたが、ついに書簡が届いてしまった。ご当主の命令には逆らえない。明日、影壱は屋敷へ戻る。
読み終えた一嘉は書簡を置いて、静かに影壱を見つめ返した。
「陰陽師、なれるかな」
「並行して勉強はしてたんじゃねーの?」
「それはそうだけど。基礎的な事だけだし、直接教わってないから」
「まぁー何とかなるだろ」
影壱が肩をすくめながら、気楽に言い放つ。一嘉は少しムッとした。
「てきとー。これで落ちたら影壱も何言われるか、分からないよ」
「何だと! よし、ぜってー見習いになれよ」
「はいはい」
都合がいい事ばっかだなーもう。心の中で呟いて笑った。
影壱のその無神経なまでの楽観主義が、一嘉の心を少しだけ楽にしてくれる。これもまた事実だった。
「影壱、感謝してるよ」
真面目な声に、影壱は驚いた。言葉の意味を正しく受け取り、いつものように軽々しく返す。
「おう。野垂れ死なれても、鍛えた俺が可哀想だろ」
「死ぬ気ないよ、僕」
「はぁー五年か? やっと人里に降りれる」
「ちょくちょく遊びに行ってたじゃん」
からかうように言った。今度は影壱が少しムッとした顔をして、口を尖らせる。
「うっせー。俺はご当主様の側仕えに戻っから、へますんなよ」
「わかってるよ。母上をどうぞお守り下さいね」
「おーよ」
影壱が短く返事をした後、しばらくの間、二人の間には静寂が訪れた。風が再び吹き抜け、木々の間を揺らす音だけが残る。
「この推薦者って誰なんだろ。知ってる?」
「噂程度ならな。陰陽師の中でも、五本指に入る実力者。あとはー、血も涙もない人だってよ。ご当主様が一番な気もするがなぁ」
影壱の言葉には、どこか敬意と畏怖が混じっていた。引き締まった筋肉質の体を持つ景壱でさえ怯えるご当主様って。一嘉は深く考えることをやめた。
「ふうん」
「ま、妖怪を殺し尽くすくらいには鍛えたつもりだ。安心して退治してこい」
「必ず陰陽師になります」
苦笑しながら答える。景壱は咎めるように、人差し指で一嘉の額を弾いた。声は低く冷たいが、その一言一言には重みがある。
「気負うな、背負うな、顧みるな。いいな?」
鋭い目が一嘉の心を見透かした。一つ一つの言葉をゆっくり噛みしめる。これが最後の教えだった。
明朝。いつも隣にあった布団は片付けられ、だらしなく寝ている景壱の姿はどこにも無い。お互い別れを言い合う機会を設けなかった。そもそもそのような考えを二人は持っていない。己の役割のため、いつか別れが来る。二人は始めから分かっていた。
望月家にいれば会うこともある。そう言って笑う影壱を思い出して、長い溜息をついた。心の寂しさを抱え、一嘉は山頂を目指した。
冷たい朝の空気が肌を刺し、遠くの山々には薄い霧がかかっていた。太陽がゆっくりと昇り始め、木々の間から光が差し込む。瞑想を終え、ゆっくりと目を開けて前を見据える。
「気負うな、背負うな、顧みるな」
声にならない言葉を唱える。一嘉は今、推薦者の迎えを待っていた。既に旅支度は終わっており、瞑想をして待つ。
一嘉の傍らには、背負える程度の風呂敷が置いてある。中には数着の着替えや影壱からもらった小銭。必需品のみだと軽すぎて、旅に不安が芽生えた。調理器具もいくつか持っていこうかと悩んだ末、愛用している器と箸のみを持っていくことにした。
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