平安逆風日記~僕らに居場所はないそうです~

ポイニークン

序章 因果

六歳を迎えた夜、僕の世界は静かに壊れた。太刀を握る手が、恐怖と怒りで震えた。目の前の異形――妖怪の存在が、確かにそこにいた。何が起こったのか、何をしたのか、その時の僕には全てが曖昧だった。ただ、闇の中で響く自分の鼓動だけが現実を告げていた。


命という形の無いものを懸けた戦いの中で、僕は自分の心が何かに引きずり込まれていくのを止められなかった。恐ろしい静寂の中、確かなのは、僕がこれまでいた世界から決定的に切り離されたことだった。


妖怪との最初の対峙は、ただの戦いではなかった。それは、僕が新たな運命に踏み込むための扉を開けた。



あの夜。僕は長い旅を歩き出したのだ。




「どうした。殺さねば、お前が死ぬだけだぞ」


背後から冷たい声がした。家族の期待もなく、恐怖と孤独に包まれた。僕は心の中で震える自分を叱咤し、太刀を握り直した。目の前の青白い炎を睨むが、根底の恐怖は増すばかり。

望月家嫡男として生まれた一嘉いちかは、己の運命を恨んだ。代々女性が家督を継ぐ望月家では、一嘉の存在は邪魔だろうと分かっていた。目の前にいる妖怪を倒し、結果を見せなければならない。利用価値を示さなければ、捨てられる。すくむ足を動かして、一歩近づく。


今思えば、皆は妖怪に殺されることを望んでいたのだろうか。


青白い炎の中には、恐ろしい青鬼がいる。炎が揺れ動くたび、その姿がぼんやりと浮かび上がる。周りは護符で囲まれている。動きが制限され弱っているものの、油断ならない。


怖くない怖くない。


自分に言い聞かせながら、更に足を一歩踏み出した。赤い目が僕を見据え、鋭い牙を剥き出しにして唸り声を上げる。だが、ここで引いてはならない。背後にいる人は二度目を与えはしない。


一嘉は勢いよく太刀を振り上げ、妖怪に向かって振り下ろした。


「死ね!」


声が上ずるのを感じながらも、全力で太刀を振り下ろした。鋭い刃が妖怪の体を貫き、青白い炎が激しく揺れ動く。至近距離でも、青白い火の熱さを感じなかった。何度も刺す、その手は止まらない。熱さによる怯えよりも、妖怪への恐怖が一嘉の心を支配していた。

ようやく、妖怪は苦しみの声を上げて、崩れ落ちていく。息を切らしながら、その場に立ち尽くした。


「よくやった、一嘉」


冷たい声の主が近づいてくる。振り返って、当主の無感情な顔を見た。彼女の目には、僕への期待も喜びもなかった。


影壱かげいち、使えるようにしろ」

「はっ」


ご当主が吐き捨てるように言った。すると、先程までその場にいなかったはずの男が現れた。ご当主様の影、影壱は恭しく頭を下げた。短く応えるとちらりと一嘉を見る。目を細めたのは見て取れたが、顔の大部分を布で隠しており、読み取れなかった。


期待されているのか、分からなかった。ご当主は真意を話さない。読み取れる程雄弁な表情もしていない。

目の前の妖怪は跡形もなく消えた。極度の緊張状態から脱した一嘉は、自分が何をしたか改めて目に焼き付けた。


「戻れ。明日から忙しくなる」


その言葉に答えることなく、ただ黙って頷いた。少しくらい褒められるかも、そんな淡い期待は、瞬く間に砕かれた。今は声を出す元気も無くなっていた。体は燃え上がるような熱い感覚に包まれている。一方で、心の中には何とも言えない虚しさが広がっていた。


妖怪をたくさん殺して、僕の存在は認められるのか。分からない。だが、やるしかない。軽い気持ちでこの太刀を振るった訳ではない。

夜空に浮かぶ月が、静かに輝いている。その光を恨めしく見上げながら、心に誓った。


「強くなるよ」


小さな呟きは誰も知らない。手に握られた太刀が、より重く感じられる。その質量が、僕の宿命を象徴しているかのようだった。


月明かりに照らされた廊下を、静かに歩く。自分の部屋に辿り着くと、障子を開ける。冷たい夜風が一瞬部屋に流れ込む。布団へ入ると、隣で寝ていたはずの妹が小さな声で言った。


「おにぃ、どこいってたの」


まだ幼い彼女の瞳が、月明かりにかすかに輝いているのが見えた。


朔那さくや、起こしちゃった?」


一嘉は彼女の顔を覗き込みながら、優しく尋ねた。


「んーん」 


朔耶は小さく首を振り、毛布を引き寄せた。


「ご当主様に呼ばれた。明日から修行だってさ」 


おちゃらけたように答えた。窓の外では、庭の竹が風に揺れている音が微かに聞こえていた。


「いいなーわたしもはやくしたーい」


朔耶は無邪気な声で言った。彼女の顔には、微笑みが浮かんでいる。


「一人で遊ぶのがつまらないからだろ」


軽く笑いながら言った。


「えへへ」


朔耶は恥ずかしそうに笑い返した。彼女の笑顔は、まるで夜の闇を照らす灯りのように明るい。 


「朔耶も巫女のお勉強があるんじゃない?」


一嘉は彼女を優しく諭すように言った。朔耶は少し拗ねた顔をしたが、すぐに元気に答えた。


「うー暇なときは遊んでくれる?」

「もちろんだよ。さぁもう寝よう」


彼女の頭を軽く撫で、布団をかけ直してやった。部屋の中は静まり返り、二人の呼吸音だけが響く。


「うん、やくそくね?」


朔耶は目を閉じながら、小さな声で尋ねた。


「やくそくだ」


一嘉は手を握り、優しく答えた。彼女の小さな手は僕とそう変わらないが随分と温かく、その温もりが一嘉の心にも広がっていく。


だが、その約束は叶わなかった。


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