第37話 新しい感情

 それにしても……お腹すいたな。


 現実に引き戻された。


 この後どうするのがいいのかな? どこか美味しいところで夕食だな。


 そう思って一華の元へと急ぐ。同じくシャワーでさっぱりと汗を流した一華が、爽やかな顔で切り出してきた。


「あの、良かったらうちにいらっしゃいませんか? 実はここから歩いて十分くらいなんです」


 家に誘ってくれた! 


 目の前に、絶好のチャンスを提示されて、思わず武者震いした。


 一華を逃したくない龍輝にとって、これは願ってもない好機だ。

 ここで彼女の期待に答えられたら、きっと好感度が爆上がりのはず。


 でも、そんな気負いが生まれた途端、足が竦んだ。


 彼女の部屋で自分がどう振舞えるのか、どう振舞うべきなのか。あれこれが頭の中をフルスピードで駆け抜けた。

 上手くやれるだろうか?


 今までは恋に受け身だった龍輝が、初めて自分から仕掛けようと思った恋。

 

 立場が変わった途端、こんなにもドキドキして、心もとなく感じるものなんだな……


 思わずゴクリと唾を飲み込んだ。


 己の覚悟を決めるまでの時間稼ぎに、繋ぎの言葉を発する。


「いいんですか?」

「はい」

「あ、でも、お腹空いていますよね。何か買ってから」


 言い掛けた龍輝に、一華は手作り料理を用意していると言った。


 一華さんは俺のために、こんなにも心を込めて準備してくれているんだ。ありがたい!


 感謝の気持ちが沸き上がって、ふわっと目の前が開けた。


 恋は頭でするものじゃないな。考えるより感じるべきなんだ!

 差し出された心に応えるのは、心で返すしかない。

 

 そう思い至って、肩の力が抜けた。



 物事には、ベスト、あるいはベターな選択肢と言うものが存在する。みんなそれを見極めたくて四苦八苦しているのだけれど、結局それはケースバイケースと言う身も蓋もない言葉で締めくくられることが多い。


 今度は恋を極めたいと思っていたけれど、そんなことはきっと不可能で。


 でも、もし一番ベターな方法があるとしたら……それはきっと、今を大切にすることなんだろうなと思った。


 この瞬間一つ一つを。


 一華と過ごす初めての数々を。大切に。心の底から楽しんで。

 迷うことすらも楽しみに。


 よし! お家デビュー、楽しむぞ!



 思っていた通り、センスが良くて落ち着ける一華の部屋。


 俺の部屋より断然居心地がいい。

 あれ? 初訪問で居心地がいいって、俺相当図太い神経しているのかな?


 早速料理の準備を始めた一華。ソファで待っていてくれと言われたが、キッチンは独立した作りになっているので、部屋にポツンと一人残されたような形だ。

 なんとも寂しくて手持ち無沙汰。

 つまらなくて様子を覗きに行った。

 

 後ろから手元を覗きこめば、驚いて振り向いた一華の頬がちょっと赤い。


 可愛いな。やっぱり一緒にいたいな。


「運ぶの手伝います。その方が早く食べられるし」

「あ、はい。じゃあ、お願いします」


 テーブル一杯に並んだ料理の数々に驚いた。

 

 きっと昨夜から一生懸命準備してくれていたんだな。


 嬉しくて胸がいっぱいになった。


 俺、愛されてる!


 実感が安心感になる。

 満面の笑みを浮かべるも、目の前には緊張して心配気に龍輝の動向を見守る一華の瞳が揺れていた。


 これはまずいな。この料理が如何に素晴らしいか。一華さんにちゃんと伝えないと。

 どうやったら伝えられるかな?

 自分が美味しそうに食べれば安心してくれるかな?

 でも、一人で食べて語ってもつまらないから。


 一緒に食べながら話して笑って。

 それがいい。


 まず、目の前の鶏ハムに齧り付いた。


 お世辞抜きで、美味い!


 幸せな顔になって、夢中でこの感動を表現する。龍輝の食レポを聞いて、ほうっと力を抜いた一華の目の前に、自分の口へ持っていくはずの二切れ目を差し出した。

 目をパチクリさせている彼女を見て、してやったり! と悦に入る。


「はい。口開けて」

「え、ええ!」

 ワザと強引な物言いで迫れば、勢いに負けて一華も恥ずかしそうに口を開けた。

 

 よし! 成功。


 餌やりは慣れている。いかに気を引きつけてタイミング良く差し出すかが重要だ。でないと、食いっぱぐれる個体が出てしまうから。


 こんなところで役立つなんて……良かった。


「一華さん、俺が食べ終わるまでドキドキして食べない気がする。でも一緒に食べた方が楽しいから。一華さんも早く食べてください。俺も順番にゆっくり楽しませてもらうから」

「龍輝さん……」


 龍輝が押し込んだ鶏ハムを噛みしめながら笑顔になった一華を見て、龍輝もほうっと力を抜いた。


「ね! 美味しいでしょ」


 自分の手柄でも無いのに、思わず自慢していた。


 これぞ、究極の証明!


 照れくさそうに、でも嬉しそうに笑った一華に、ちゃんとメッセージは伝わったようだ。


 凄く美味しい。ありがとう! 

 一緒に食べよう。その方が楽しいから。

  

 どちらか一方だけが楽しいじゃだめなんだよな。

 やっぱり、一緒に楽しまなくちゃ。



 なんでも一緒に楽しみたいと思ったら、皿洗いも楽しい。

 二人で並んで、おしゃべりしながらの作業はいつまでも続いて欲しい時間。


 でも、お皿は限りがあって、アッと言う間に終わってしまった。


 もう一度、一華からソファに座っていて欲しいと言われてしまったが、何やらサプライズを仕掛けているように感じ取れたので、今度は素直に頷いた。


 程よい固さのベージュのソファに大きなビタミンカラーのフカフカクッション。 

 誘われるように腰を落としたら、夢の世界まで一直線だった。 

 今日は本格的に体を動かしたから、思っていたよりも疲れていたらしい。

 居心地がいくら良くても、やっぱり初めてのと言うのも無意識の緊張を呼ぶ。


 気持ちいい……


 ふわりと温かみを感じて目が覚めた。

 

 まずい! 寝ちゃった!


 慌てて起き上がると、弾かれたように飛びのいた一華の影。


 あーあ。心配かけちゃったな。

 いや、それよりも図々しいヤツだって思われたかな?


 申し訳なく思って謝ると、一華から出たのは、優しい労いの言葉と少しの後悔。

 自分がジムに誘ったから龍輝が体調を崩したのではと心配しているようだ。


 ああ、なんでそんなに君は―――


「君は優しいね」


 本音が溢れ出た。

 抱きしめたい。骨が軋むほどぎゅっと。


 床に座り込んでいる一華を引き上げた。自分の傍に。直ぐ手が届くところに。

 

 キスしたい。

 いや、押し倒したい。


 自分の中の獣が顔を出す。


 ああ、今日は新しい感情ばかりだ。

 振り回される―――


 彼女が家に呼んでくれたのは、この先へ進む可能性も否定していないから。

 だったら、進むべきなのか?

 それは、彼女の希望と合っているのか?


 真っ直ぐに一華を捉えながら自問自答を繰り返す。

 

 でも―――俺は衝動的に進みたくない。


 大切にしたい!


 彼女との初めては、全部大切にしたい。


 

 気づかわし気に一華が声をかけてくれた。

「あ……の……」


 その声に、ふっと我に返る。そして思い出した。


 そう言えば、サプライズを用意してくれていたんだ。

 せっかくのサプライズを無にしちゃいけない。


 なんとか冷静さを取り戻すことができた。

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