第32話 以心伝心
「流石、草間さんだね。あの山瀬取締役を納得させられるなんてさ」
自分たちのフロアに戻って来てから、田戸倉課長が心の底からほっとしたようにそう言った。人の良い性格がだだ漏れの笑顔を向けられて、一華の緊張も緩む。
「いえ、なんとかご理解いただけて良かったです」
「本当だよ。もう、この方向でコマーシャル制作会社と話が進んでいるのに、今更方向転換したら時間も労力も無駄だからね。草間さんありがとう」
ストレートな感謝の言葉は嬉しいものだ。一華も笑顔で頭を下げると自分の机に戻った。
ふぅー。一仕事終わり。
本日のエネルギーを使い果たしたような気分になったが、まだ一日は始まったばかり。
気合を入れ直して残りの仕事に向き合った。
長い一日が終わって、給湯室でほっと一息コーヒーブレイク。
今日は帰ったらゆっくりお風呂の湯に浸かろうと思いながら龍輝のことを考える。
今頃、何しているのかな?
龍輝と一緒に眺めたクラゲの水槽も思い出した。プカプカ気持ち良さそうだったな~クラゲ達。
紅子元気かしら?
龍輝の視線を釘付けにしているであろう紅子に、ちょっと嫉妬する。
でも、クラゲに嫉妬してもしがいが無いわね。
それに、脱力系キュートさに一華の目力も直ぐにメロメロに溶かされてしまうのだから。
周りに誰もいないことを確認してから、思い切ってLineを開いた。
『今日もお疲れ様です。実は今週末の事なのですが、よろしかったら一緒にスポーツジムに行きませんか? お返事は急ぎませんので』
とりあえず送っておくだけ。そう思っていたのに、直ぐに既読がついて返信が返ってきた。
胸の中がふわっと温かくなる。
やった!
ところが返信の文言を見て可笑しくなった。
『ちょうどよいところに』
何がちょうど良かったんだろう?
真相は続けて届いた文言で明らかになる。
『今、チャーハン定食食べてます。この間一華さんと一緒に食べたやつです』
『ちょうど一華さんの事思っていたら、タイミングよくLineが来てびっくりしました!』
龍輝も私の事思い出してくれていたんだ!
一華はLineを見ながらニヤニヤ。
先ほどまでの疲れが一気に吹き飛んで行く。
以心伝心。嬉しい!
チャーハン定食の写真も送られてきて、一華のお腹もキュウとなった。
『いいなぁ。私も食べたい』
『また食べに来ましょう! 後、週末のスポーツジム、いいですね。行った事ないので、楽しみです』
行ったこと無いんだ!
『ジム、初めてなんですね。じゃあ、私が行っているところの体験をしてみるのは如何ですか?』
『OKです! 土曜日、がんばって休めるようにします』
土曜日、お休みできるといいなぁと思いながら『頑張って!』のスタンプを押すと、龍輝からも『お疲れ様』のスタンプ。
短いやり取りでも直接話せて大満足の一華は、足取りも軽くデスクへと戻ったのだった。
そこから残りの日々は、早いようで早くない日々。
仕事に忙殺されて、アッと言う間に過ぎているにもかかわらず、会える日が待ち遠し過ぎて、まだ土曜日にならないと指折り数える想い。
感覚の二極化に驚きつつも、一華は手作りメニューをあれこれ考えていた。
『実は俺、今までに誰かとお付き合いしたこと無いんです』
この間、龍輝はそう告白してきた。それは疑いも無く真実なのだろうと思える。
だって、龍輝は嘘が言えないから。
そして、彼の初めてを独占できる―――それは、やっぱり嬉しいことだった。
対する一華は、この恋が初めてでは無い。
学生の頃、勤めてからも、何度かお付き合いしたことがある。
その時々は一生懸命で、相手の男性をちゃんと好きだったと言える自信はある。
でも、結局、様々な理由で別れてしまった。
仕方が無いこと。鍵穴にピタリとハマらない相手だったのだろう。
でも、龍輝は最初の瞬間から『心の鍵穴がカチリ』と音を立てた。
そして、会うたびに好きになっていく。
燈子の言葉で言えば、『乙女』のようにはしゃいでいる自分の気持ちに驚いた。
今まで知らなかった自分が見えてくる。
それは嬉しくも、ちょっと恥ずかしくもある経験で。
一華も、初めての恋を経験しているような気持ちになっていたのだった。
念願かなって待ち合わせの時間。
一華が会員になっている『カロス・クラブ』の入り口で落ち合うことになっていた。
龍輝の方も、土曜日に休めるように必死で調整してくれた模様。
『会いたい』と思ってくれている……それが何よりも嬉しいと思った。
ラフなTシャツにデニム姿の龍輝。
同じような恰好の一華を見て、即座に目が弧を描いた。
「うわ! 新鮮ですね。ラフな格好の一華さんも可愛い」
か、可愛いって言われた!
その言葉に、一気に乙女が発動した一華。
火照る顔を持て余して思わず視線を落とした。
「あ、ありがとうございます」
「久しぶりの運動だから心配なんですよね。相当体がなまっているから」
龍輝の方は自分が放った『無自覚たらし発言』に気付くことなく、屈託なく笑いながらやる気満々の様子。
「よーし! 早速行きましょう!」
「はい」
二人で受付へと向かった。
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