第26話 クラゲ講座

「あ、閉館時間が近づいているのでさっさと入りましょう」

 

 晴れ晴れとした顔になった龍輝が誘ったのは、会社が運営しているミニ水族館。子ども達に海のことを知ってもらうために作られた学習型施設で、入館料は格安だ。夏休みにはたくさんの親子連れが訪れていて、今もそこそこ混雑している。


 そんな中へ、背の高いカップルが乱入した格好だ。

 

 でも、隣のイケメン……小学生に負けないくらいキラキラした目をしているけれど。


 思わず母親のような気分で見つめてしまった。


「一華さん、こっちこっち」

 そう言って指差したのは、やっぱりクラゲのコーナー。


 でも、自分の事を同じくらい愛してくれそうと思ったら、龍輝のクラゲ愛が深ければ深いほどいいなぁと思ってしまうゲンキンな一華だった。


 なんとなく、龍輝さんの叙述トリックにハマったような気がしなくもないけれど……

 でも、そんな計算ができたら、きっと龍輝さんは今の龍輝さんじゃないわね。



 子どもの施設とタカをくくっていた一華は、幻想的な水槽を見て驚いた。

 展示エリアはライトサイドとダークサイドに分かれていて、クラゲはカーテンで仕切られた暗い空間にいた。

 

 中央に大きくて丸いクラゲ水槽。

 数えきれないほどたくさんのクラゲがふわりふわりと舞っている。

 まるで無垢な天使の羽のようだと思った。


 時折七色に移り変わる光が、クラゲの色をも変化へんげさせていく。

 すると今度はあでやかな雰囲気を纏い始める。

 実は内に毒を秘めた危険な存在なのだと言うことを思い出させた。


 そんなクラゲたちを慈愛に満ちた眼差しで見つめている龍輝。


 龍輝さんって、本当にクラゲが好きなのね。

 

「クラゲのこと、教えて下さい」

 そう囁けば、彼の口元に笑い皺が生まれた。


「そうですね……じゃあ、今日はクイズ形式で。クラゲの脳は何処にあるでしょうか?」

「え?」

 目を丸くした一華、目の前の水槽に視線を戻す。目を凝らして、一生懸命眺めてみるもよくわからない。


「わからないです。体の真中とか?」

「実は引っ掛け問題です」

「引っ掛け問題?」

「そう。クラゲに脳にあたる器官は無いんです」

「ええー。じゃあどうやって生きているんですか? まさか何にも考えていないのかな?」


 一華の言葉に、ますます嬉しそうになる龍輝。


「そうですね。人間が思うような『考える』行為はしていないのかもしれません。その代わりに全身に『散在神経』と言う神経が張り巡らされていて、反射神経で生きているんです。触れたら即、行動。即毒注入、即捕食……と言う感じですね」

「そうなんですか……知らなかった」


「実はとてもシンプルな生き物なんですよね。体も水分がほとんどで、ゼラチン質のプランクトンなんです」

「プランクトンなんですか?」

「一見泳いでいるように見えるんですけれど、これは心臓と同じ働きで、この収縮する動きで体内を循環させているだけなんです。だから基本、漂っている生き物ですね」

「漂っているだけなんですね」


「一華さん、ゼラチンと言ったら?」

「え、えっと……ゼリー。あ、後コラーゲン?」

「おお、その通りです。実はゼラチンはコラーゲンからできているんですよね。分子のレベルが違うんです。つまりコラーゲンに熱をかけて分解した状態がゼラチンと呼ばれています」

「じゃあ、コラーゲンよりゼラチンの方が小さいってこと?」

「そうなりますね」

「ゼラチン食べた方が吸収が良いのかしら?」

「ははは、流石一華さん。美肌を作るのは内側からですからね。そしてサイズが小さいほうが吸収しやすくなるでしょうね」

「面白い。クラゲの話から美肌の話になるなんて」


 無邪気に面白がる一華を、龍輝が目を細めて見つめてきた。


「そう言ってくれると思っていました」

「え?」

「知識は底なし沼のように、追っても追っても追いきれないほど深いです。その上、連想ゲームのように横にも広がっていく。だから面白いし飽きないんですよね。それを一緒に楽しんでもらえるなんて最高です」


 見つめ返した一華の心臓を射るのは、歓喜に全振りした無垢な瞳。


 ああ、またられてしまう……


 刺さった矢を抜くこともできずに、そのまま二人の世界へと入り込んで行った。



 歓声を上げながら後ろを通った子どものお陰で我に返る。


 そうだった。ここは水族館。しかも子ども向け。


 ハッとして二人で同時に水槽に視線を戻した。


 恋人たちの様子には無頓着に、ふわふわと漂うクラゲたち。

 姿を見ていると、一緒に揺蕩うような不思議な感覚になる。

 体の記憶が導き出すのは波の揺らめき、潮の香。

 だが、それよりも深く魂が癒されるのは、遺伝子に刻まれた太古の生命の記憶が呼び起こされるからだろうか。


 一華は自分も浮いてしまいそうな浮遊感を感じて、思わず龍輝の腕に両手でしがみついた。

 気づいた龍輝がふわっと右手を重ねてくる。


「次は光るクラゲに行きましょう」

 まだまだ語り足りない様子の龍輝。喜々として一華を引っ張って行った。


「一華さん、この子たちを見てください。イルミネーションみたいでしょう」

「うわぁ、とっても綺麗ですね。光の粒が動いているから正にイルミネーションですね」

「こっちがウリクラゲで、あっちがカブトクラゲ。どちらも体の表面にある、櫛板くしいたと呼ばれる細かな繊毛を動かして泳いでいるんです。自ら発光しているわけでは無くて、海の中のわずかな光を反射させているので、光っているように見えるんですよ」

「深い海の中って暗いですよね? 太陽の光が届くんですか?」

「おお、良いところに気づいてくれました」


 龍輝が嬉しそうに続ける。


「海の中はとても暗いです。でも、深海の生き物たちは、人間よりもずっと光に敏感なんですよ。僅かな光も感知できるし、こうやって集めて利用することもできる。凄いと思いませんか? 過酷な環境でも、その場に適した体に変化させながら生き残ってきているんですから。逞しいですよね」


 尊敬の眼差しをクラゲに向けている。


 ううん。きっと全ての生命をリスペクトしているのね。


 その横顔が堪らなく可愛いと思いながら、一華は龍輝が続けて語り出した学術的話は右耳から左耳へと流し続けていた。


 話している内容はよくわからないけれど……話している龍輝さんの表情は穏やかで優しくて素敵!



 まだまだ続きそうな龍輝のおしゃべりは、閉館の音楽によって打ち切られた。子供向け施設のため開館時間が短いのだ。


 ほうっと一息ついた一華に、龍輝がにっこりして尋ねてきた。


「お腹すきませんか?」

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